2007年9月30日日曜日

ゲーム


ある人の、子供のころの思い出話を聞いた。学校では、子どもたちはランチを食べ終えると、同じテーブルを囲んだ仲間の中から代表して食器を返しにいく係を決める習慣があったという。たとえば「今日は2番目に数の小さな子だよ」と予め決めてから、みんなで一斉に空になったガラスのコップの中を覗き込む。そして「ボクは3だ」、「わたしは41」、「わたしは13」、「ボクは21。じゃあ今日は13番だね。」という風にして、その日の当番を決めていたそうだ。

本当にそれでゲームが上手く成立するのだろうかと不思議に思い、うちにもあるその国のガラスのコップを調べてみると、1組だけ同じ数であとはすべてバラバラだった。ずいぶんと昔の話なんだけど、そんな小さなことに一体誰が気づいたのか、どうしてそんな習慣が出来たのか、まったく子どもは遊びの天才である。

2007年9月29日土曜日

1700キロ

自動車保険の継続手続きをした。走行距離に応じて保険料が軽減される仕組みになっているため、この一年間の走行距離を計算してみると、それがたったの1700キロ。現在のクルマに乗り換えてから10年、総走行距離が25000キロなので、年ごとにクルマを運転する機会が減少しているようだし、生活実感にも合致する。

利用頻度は、妻が毎週2回、わたしが週1回定期的に運転する他、悪天候時の外出に使う程度。クルマを使う必要がなければオートバイか電車、時間に余裕があれば自転車か徒歩なので、移動距離全体に占めるクルマの役割は3分の1もいかないだろう。そして、最近は意識的にクルマ以外を選択するので、クルマの運転からますます遠のいていきそうな気配である。

だけどクルマが嫌いかというとそういうわけでもなく、また人並みに関心もある。仕事帰りの夜遅く、お気に入りの音楽を聴きながら、きらびやかな都心の夜景が流れ去るのを見るのは、何も増して心安らぐ瞬間だし、高速道路を非推奨的スピードでクルージングするのも楽しいものである。だが、そういう愉しみを止めなくてはならない時期は、確実に近づいていると思う。特に道路渋滞が恒常化し、無意味に生活環境を悪化させている都市部においては、少なくとも、必要もないのに漫然とクルマを運転するのはスマートとは言えないと感じるのだ。

ただ問題は、将来を考えると、クルマと縁を切ることに不安があるのだ。本格的な高齢社会になった時、行政には何も期待できない状況になっているだろうことは明白である。そして、年老いて何をするにも不便を感じるようになったとき、とくに買い物や通院などに頼りになるのは杖としてのクルマだと思う。そう考えるとき、今は無駄を覚悟の上、クルマを持ち続ける必要があるのかもしれない。

いま、わたしが行政に望むことは、高齢社会に対応した都市を一刻も早くつくること、とりわけ東京ではトラムを積極的に建設し、また自転車の利用を促進するなどして、日常生活をクルマに頼らずに済むような都市にしてもらいたいということだ。残された時間は多くはないのに、住民生活に必要もないオリンピック誘致などというお祭り騒ぎをしようとするのは、やはり我々の危機意識が不十分なせいなのだろうか。

以前にも似た趣旨のことを書いたが、やっぱりとても気になることなので、これは何度でも書いておこうと思う。

2007年9月26日水曜日

「遥かな町へ」

誰のだったか忘れてしまったが、時間とは後悔を感じる人間だけが持つ観念だと書かれていた本があった。たしかに、取り返しのつかない失敗が時間とともに深い後悔に変わるという経験からも、これに共感する人も多いだろう。だから多くの小説や映画で、タイムスリップして未来を変えるというストーリーが繰り返し語られるのだと思う。しかしその設定の面白さとは裏腹に、その種の物語の虫のいい、卑しいだけの結末にがっかりすることも多いのだ。

休日に読んだ谷口ジローの漫画「遥かな町へ」も、タイムスリップもののひとつである。しかし、この漫画の読後感は、意外にも爽やかだ。なぜなら主人公が過去に起きる辛い事件を真正面で受け止め、疎ましくなっていた現在を積極的に肯定するからである。わたしたちの「今」は、過去から連綿と続く因果の連鎖に繋がれている。自分にとって都合の良いことや悪いことを引っ括めた、すべての事柄が人生の貴重な一コマだ。だからこそ、過去は過去のこととして受容し、あるいは人を赦すという作業が、かけがいのない人生を送るために必要なのだろう。

家を出て行こうとする父親を、懸命に引き止めようとする息子。だが48歳の魂を持つ14歳の息子は、自分の選んだ人生を行きたいという父親の気持ちを知って引き止められなくなる。しがみつく息子を振り切って列車に乗り込むシーンのなんと切ないことか。そして48歳に戻った主人公は、逃げ出そうとしていた家庭に戻っていくという結末を迎える。後悔だけは山のように抱えたわたしにとっては、平凡だけど、そういう結末が一番しっくりくるである。

谷口ジローの作品では「孤独のグルメ」も味わい深い漫画だった。昨今のグルメブームを毛嫌いする中年男に特にオススメである。

2007年9月22日土曜日

プラスチックのポット


この十年くらいで洒落た日用品を扱う店が激増して、とても便利になったのはいいが、どこもかしこも似通った品揃えで食傷気味である。せっかく時間を作って訪ねていくのだから、客をわくわくさせるような、よそとは違うんだという明確な個性を発揮してほしい。それから、数少ない商品をちまちまと並べるのではなくて、雑然と積み上げるくらいの心意気が必要だ。雑貨屋なのだから、客に発見する楽しみを与えないと、すぐに飽きられると思うのだ。ここのところ都心の日用雑貨店を見て回る機会があったが、空振り続きで文句のひとつも言いたい気分になってしまった。

インターネットもなく、何をするにも今よりずっと不便だった頃、優れたデザインの日用品だけを扱うという、明確な主張を持った店は都内でも数えれるほどだった。それだけに、逆に店の個性もはっきりしていて、こういうものが欲しければあそこに行けばきっとある、という信頼があった。そして、もしそこになければ、どこに行ってもないという諦めもついた。ある意味、モノ探しは今よりずっと楽だったと思うのだ。

そんな信頼を置ける店が、以前暮らしていた町にもあって、所帯を持った当初は、いつかはこんな暮しをしてみたいという憧れを育んだものだった。写真はその当時、その店で一目惚れして買った、ノーブランドのプラスチック製ポット。見るからに安物だけど、そのシルエットの美しさに、コロッと参ってしまったのだ。本来は油などを入れる容器なのだが、それではもったいなくて、ずっとペン立てとして使っている。そのお気に入りの店は、既にもうない。

2007年9月21日金曜日

フラットかるヒット


いやもう、こどものころから本当にずーっと使い続けてきたホッチキスを、故障もしていないのに、あろうことか新しいのに交換してしまった。それがプラスの「フラットかるヒット」なのである。たまたま借りて使う機会があり、その使い良さにびっくり仰天して、道具は壊れるまで使うという原則をあっさり放棄した。掌にすっぽりと収まる握り易さ、レバーを押し込んで紙が綴じられる瞬間の気持ちよさ、そして作業の仕上がりのきれいなこと。長年、退屈しきっていた作業が、いささかオーバーと思うが、快感を伴う作業に変わったのである。優れた道具というのは、つまりそういうことだったんだと、新鮮な感動を得た製品だった。


新製品の出現で、すっかり評価を下げてしまった古い相棒だが、デザインは悪くない。60年代特有の生真面目さと、時代を先取りしようとする革新性。今となってはただ懐かしいばかりだけど、強く自己主張することもなく、ずっと地味な仕事を支えてくれたことに、古い日本人の奥ゆかしさを見る。これは確かグッドデザイン選定商品だったように思う。

2007年9月19日水曜日

誤った言説

誤った言説というものにも2種類あるように思う。一つは他の言説との比較を通じて、いわば内容のレベルで誤っていると判定される言説である。もう一つは、言説の入り口で、中身を検討するに値しないものとして、さっさと切り捨てるべき屑のごとき言説である。そして本書のターゲットは後者の方、すなわち中身に触れることなく排除すべき言説の特徴とは何かを、豊富な例文をもとに解説した本である。

環境問題、国際政治、生命科学、経済問題等々、私たち自身が判断すべき事柄は多岐にわたり、しかもそれぞれに専門知識を必要とするものが多い。にもかかわらずその多くの問題について、わたしたちは十分な知識を持ち合わせおらず、それは必然的に他の誰かの言説の比較を通じて、よりましな判断を求めなくてはならないことを意味する。そしてその際、最低限必要なことは、言説の比較の前に屑言説を短時間で選り分けなくてはならないことである。屑さえ取り除けば、致命的に誤った判断をせずに済むのだから、屑を効率的に取り除く技術は、判断基準を持たない者にとってはきわめて重要なことだといえよう。

本書の功績は、何が屑かを機械的、形式的な基準で判断すべきことを提案している点だろう。すなわち当該言説が、
・単純なデータ観察で否定されないか
・定義の誤解・失敗はないか
・無内容または反証不可能な言説
・比喩とたとえ話に支えられた主張
・難解な理論の不安定な結論
という特徴を備えているか否かで、短時間で検討に値するかどうかを判断しようとする。

実はこの方法論、それほど目新しいものではない。それは人生で何度も向き合わなくてはならない試験問題の、とりわけ「正誤」を判断させる設問の解答手順と同じでなのある。たとえば、定義の不明確な大きな概念から一定の結論を導いている文は、内容の当否を考えるまでもなく誤っている。権威づけられた理論の内容を明示することなく、そこから導かれた結論は限りなく怪しい、など。要は、議論の範囲が十分に絞られ、そこで使用される概念が明確にされ、誰が検証しても判断が揺れない確実な論理運びがなされている言説を尊重しましょう、ということなのである。逆に言うと、如何にもありそうなもっともらしい、感覚的にしっくりくる言説には特に注意しましょうということ。

・「ダメな議論−論理思考で見抜く−

2007年9月17日月曜日

栗の季節


今年も栗の季節がやって来た。そして、きょうは午後から栗の皮むき。それは指の力が強いわたしの役目と決まっていて、年中行事となった今では面倒などころかむしろ楽しいとさえ感じる。ヘッドフォンで音楽を聴きながら、ひたすら指先に意識を集中させて、次々と栗の皮を剥いでいく爽快感。だが季節外れの暑さに、ふと気がつくと、両肘から汗が滴り落ちている。


作業の間、ずっと流していた音楽は、ジャン=ミシェル・ピルク・トリオ。栗の皮むきには不向きの、ヨーロピアン・フリージャズ。沸騰する音の洪水に、足を踏み鳴らし、手にした包丁を振り回す。もしこの様子を見ていた人がいたら、きっと怯えたことだろう。

・「ウェルカム・ホーム」ジャン=ミシェル・ピルク・トリオ

2007年9月16日日曜日

手作りPCラック


手頃で安価なノートPC用のラックを探したが、これがなかなか見つからない。無印あたりで作ってくれると嬉しいが、こっちはまったく望み薄の模様。ならば自作しようと、有り合わせの材料を掻き集めて作ったのが、このPCラック。100円ショップのコの字型をしたシューズラックを2個並べ、その上に放熱用のアルミ板を取り付けただけの簡単なものだが、この猛暑を一度もファンを回すことなく乗り切った。


出来るだけ放熱効果のあるものが欲しかったので、アルミ板の裏には断面がヨの字アルミ棒を貼付けてみた。このあたりの作業は特別に工作好きの小学生にやってもらって、わたしはそれを端で見て激励するだけである。出来上がった放熱版にパソコンを固定するための、小さなビニールの留め具を取り付け、それを更に並べたラックを溝に嵌め込んで台全体を固定して出来上がり。


素人工作にしては見栄えのいいものが出来たが、見てのとおり華奢な作りのため、台の上で直接に入力作業をするには向いていない。だが外付けのキーボードを常用する場合は不都合はなく、むしろ台の中にキーボードを格納できるという利点があるので、乱雑な机上には非常に便利なのだ。掛かったのは、子どものおやつ代とそれと同程度の材料費のみ。

2007年9月14日金曜日

自転車


この20年、
自慢の柿渋を塗った網かごはバラバラになり、
サドルのスポンジはへたってしまい、
後輪のタイヤは摩耗して、ある日突然バーストした。
雨の日に、クルマと接触して、前輪のリムは折れ曲がり、
店主に、まだ乗っていたのかと驚かれ、
気がつくと緑の塗装は剥げて、あちらこちらに錆が浮いている。
かごにサドル、前照灯にブレーキワイア、リムやチューブに至るまで交換し、
そしてパンク修理はプロ並みに上達した。

もちろん、今も立派に現役。
あまりの老朽ぶりに、鍵を掛けていなくても誰も持って行こうとしないが、
乗り心地は新品の頃と変わりない。
余計なものが何もない自転車だったからこそ、ここまでもったと思う。
久しぶりに自分でタイヤを交換して、今朝は記念撮影である。

2007年9月12日水曜日

上野の森を展々と

展覧会のはしごは疲れるので避けたいところだが、開催場所が隣同士ならば仕方ない。おまけに時間も限られているというわけで、上野の森で美術館巡りをした。

午前は東京都美術館の「トプカプ宮殿の至宝展」。門外不出のトルコのお宝工芸品を展示しているが、予備知識なしで見たせいか、期待イメージとのギャップでいまひとつという感じ。ダイヤだルビーだサファイアだと言われても、原石からほじくり返してそのまま貼付けたような細工では、せっかくの素材が生きてこない。素人の感想なのでいい加減なものだが、お宝の基準がキロ幾らという質量で決まるような実務的な気風を感じるのだ。資料的な価値はあるのだろうが、総じて物欲を刺激されるようなものはなかった。

東京都美術館を出たのが昼過ぎ。ランチをしたいと思うが魅力のあるところを知らないので、例によってベンチに座って水筒のお茶とキャンディーで空腹をしのぐ。いつも思うのだけど、せめてドトールかサンマルクカフェがあったらとても助かるのだが。

午後は藝大美術館の「金刀比羅宮 書院の美」展。気分としては午前は曇り、午後快晴。いやあ、どれもこれも楽しい、楽しい!応挙のネコ、もとい虎のかわいらしさには周囲から笑い声が聞こえるくらいの大人気。そして岸岱の襖絵の大きく伸びやかなこと。ニッポン大好き。お目当て伊藤若冲、アクリルの保護板一枚を隔てた距離で、その肉筆を鑑賞する。「花丸図」の凄みすら感じる精緻で贅沢な花々、問答無用の迫力だった。金刀比羅宮の書院を再現するという企画なので、滅多に見ることの出来ない金刀比羅宮の書院をいわばバーチャルに楽しめるという特典付き展覧会だった。

同時開催していた「芸大コレクション展 歌川広重《名所江戸百景》のすべて」も、非常に充実した内容。広重のきわめてモダンな美意識に支えられた江戸の情景は、現実を飛び越えて空想世界と呼ぶべき不思議な魅力を放っている。じっと作品に見入ってると、通りを行き交う人々のさざめきが聞こえてきそうで、ふっとその時代にタイムスリップした気になるのだ。広重を模写したゴッホは、その作業を通して江戸の世界で無心に遊んでいたのではないだろうか。

2007年9月9日日曜日

レターオープナー


毎日のように何通もの封書を開封している。特にネット社会と言われるようになって、封書が減少すると思ったら、むしろ逆に増えているような気がする。ずっと以前、封書が少ない時分は、丁寧にハサミで開けていたが、それが追いつかなくなってワインオープナーに付属する刃で開けるようになった。ナイフよりずっと安全だし、厚紙を切る場合はむしろそちらの方が使い易いという長所があるからだ。しかしハサミにしろワインオープナーにしろ、専用道具でないのでスマートな方法とは言い難い。

そこでレターオープナーの出番である。写真のものはスリットの中央にセラミックの刃が仕込まれていて、スリットに沿って封筒を滑らせるとその部分だけが切れる仕組みになっている。一枚切りカッターの封書専用版だと考えれば分かり易い。メールエッグという愛称を与えられているが、大きさは鶏卵よりずっと小さい。邪魔にならないのはいいが、黒くて小さいので、机上を探しまわることが多い。この欠点さえ目をつぶれば、なかなか出来のいいレターオープナーである。


その前に使っていたのが、プラスティック製のオープナー。老舗の文房具店で見つけて衝動買いをしてしまい、自分の愚かさを深く反省することとなった。戒めのため、捨てずに机の中で眠らせているレターオープナーである。ちょっと見でいけると直感したのだけど、冷静に考えたら駄目なものは駄目だと分かりそうなものだったのだが・・・。

2007年9月7日金曜日

若葉

台風に備えてベランダの植物たちを待避させた。なかでもシルクジャスミンは「葉が命」なので、特別に室内に入れてやる。以前にも同じ木を育てていたが、うっかり枯らしてしまったことがあった。そこで今の2代目は、言ってみれば再チャレンジ、絶対に枯らさないようまめに世話をしている。所詮植物なんだから放っていてもちゃんと育つというのは確かだろうが、愛情を掛ければそれなりに応えてくれると信じているからだ。

今年は猛暑だったせいか、発育が非常にいい。毎日のように茎を伸ばし、その先端に柔らかく瑞々しい若葉が開いているのが見つかる。昨秋、我が家にきた時は小学生程度の背丈だったのが、今では軽く2メートルを超えている。ただ、幹が細くてヒョロ高い状態なので、添え木をしてやらないと危なっかしくてしょうがない。立派な成木になるまで、まだいろいろと手が掛かりそうだが、それがベランダ園芸の醍醐味なのかもしれない。もうすぐ秋、上手くいけば白い花を一杯につけて、そしてそのあとに出来る赤い実が楽しみなのである。

2007年9月6日木曜日

探しモノ

オリーブ油を入れる容器を探している。朝はトーストに、夜は炒め物やサラダ等とにかく何にでも使い、月に中瓶1本は消費する。従って用途に応じて油を出す量が微妙にコントロールでき、しかも液垂れせず、且つ簡単に洗浄できるものが望ましい。ガラス製は見栄えはいいが、実用的でないので困る。

今使っているのは機能的な欠点はないものの、見かけがご覧の通りの緩さなので、いつまで経ってもしっくりこない。ちゃんと使えて、それなりに格好が良ければ、工具用でもオーケー。料理によって使い分けをしたいので、容器に色違いがあると大変嬉しい。機会あるごとに探すのだけど、これがなかなかないんだなあ。

酒や調味料などは名前を覚えきれないので、美味しいと感じたものは写真に撮っておく。ラベルの柄さえ覚えていれば、何とかなるだろうという目算である。最近使ったオリーブ油では右の写真のが、香りがしっかり出ていて好みの味だった。でもどこで買ったのかすっかり忘れてしまい、家人に呆れられている。これは思わぬ盲点!

2007年9月5日水曜日

鉛筆削り

近頃の文房具、妙に高級なものと、いかにもファンシーといったものに分かれてしまい、実用一点張りというカテゴリーが縮小しているように感じる。その実用一点張りの分野でも、なにがしかのストーリーが貼り付いている製品があり、それがまたたまらなく胡散臭く感じるのだ。そりゃどんな製品の背後にも人間が存在するのだから、大なり小なりドラマがあるのは承知のうえ。でもそれを前面に出して売るのは、ちょいと野暮じゃござんせんか、とね。

実用のものはそれらしく、几帳面で、無愛想にしていてほしい。シツジツゴーケン、というあれだ。真っ黒で、四角四面、いつも机の隅っこで忠実な番犬のようにじっと出番を待っている。そんな文房具を長く使っていると、単なるモノではなくって、大切な友のように感じるようになるのである。ちょうど、この鉛筆削りのように。

2007年9月4日火曜日

プレースマット


趣味というほどではないが、気に入ったものが見つかるたびに買っているのがプレースマットである。とりわけ旅先で土産の絵はがき代わりとして買うことが多い。絵はがきのように郷土色があるわけでないが、旅の記憶をとどめておくタグのような役割なので、そこにこだわる必要もない。

最近はミュージアムショップでもプレースマットを見かけるようになったが、実際に使ってみるとあまりいいものではない。毎日のように使うものだけに、必要以上に個性が強いと鬱陶しく感じるようになるからだ。実用品である以上、いつまでも飽きのこない、むしろ単調なくらいのデザインがちょうどいいように思う。

写真のプレースマットは出先で偶然見つけたインテリアショップに置いてあったもの。港町の古いビルが建ち並ぶ一角で、その店だけが明るい光を放っていた。東京のように何もかもが最先端みたいな場所なら、何を見ても心惹かれることはないが、昼間でも人通りのない静かな場所だと覗いてみようという気になるのが不思議だ。店の名前はすぐに忘れてしまったが、冬の寒い日に何気なく入った、そのインテリアショップの居心地のよさを、ことあるごとに思い出すのだ。

2007年9月3日月曜日

「コピー用紙の裏は使うな!」

もう本当にミミタコの「コスト削減」だけど、本書は今一度その経営上の意義を確認して、実践的なコスト削減を可能にするための指針を簡潔にまとめた本である。いまどきの経営戦略を知っていれば今更という内容だが、あと何十年かは右肩下がりを体験しなくてはならない日本人にとって、日常生活の「コスト削減」はもはや常識であり、無意味な倹約をしないためにも非常に参考になる。

著者曰く、コスト削減活動とは「目に見えないものを、見えるようにすること」が肝なんだとか。その代表が、電気・ガス・水道等のエネルギーコスト。例えば、30歳で4人家族の人が4000万の戸建てを購入して80歳までに支払うエネルギーコストは1800万円になるという。ではどうすれば、正しいコスト削減が出来るのか。

コスト削減の手順は、調達改善、運用改善、設備改善の順番で実行されなくてはならない。これを電気料金に当てはめると、まず最初に契約アンペア数を見直すこと。それから、不必要な電気の利用を抑制する。そして最後に、より省エネ度の優れた新型機を購入するというのが正解。普通は最初の2つを飛ばして、いきなり新製品に飛びつくからコスト削減が出来ないとの指摘、実に鋭い。環境のためノンフロンの冷蔵庫に買い替えようかと思ってたが、そんなことではコスト削減なんぞ出来まへんで、と言われてしまった。

本書のタイトル「コピー用紙の裏は使うな!」は、コピー用紙の裏を使うことを禁止しているわけでなく、意味もない感情的な節約を戒める趣旨。コスト削減はあくまでコスト・ベネフィットのバランスを考えて、賢く実行しなさいということだ。

「コピー用紙の裏は使うな!」