2007年10月28日日曜日

水を飲む

夕食はいつも9時過ぎだ。だから胃に応えるものは作らず、野菜中心のあっさりとした料理が多い。そのかわり酒はよく飲むので、あまり健康的な食生活とは言えないだろう。もっとも気を遣わなければならないほど病気するわけでないので、自然体で好きなものを飲み食いすればいいというスタンスである。

ただ最近、少し酒に弱くなってきたようだ。以前だったら食後にも酒を飲みながら、深夜過ぎまでビデオを観るのが楽しみだったのに、いまではそんな芸当が出来なくなっている。それに貴重な時間を毎晩酔っぱらって過ごすのも、ちょっとまずいのではないかという反省の気分。そこで、この1ヶ月ほど前から食事中の酒を減らすことを試みている。

今までならば、食事の開始とともにビールをグイッとひと飲みして、「お疲れさん!」の気分を味わっていたが、これを冷えたミネラルウォーターに置き換えた。そして、そのあとにワインを出して本格的に食事を始めるのだが、そこでもミネラルウォーターを出来るだけ引っぱり、もう我慢ならんというところでやっとワインを口にする。そして最後に、締めのもう一杯というところでも、ワインの代わりに水を飲んでご馳走さまをする。

まあなんと言うか水浸しの食事だけど、実際にやってみると酒浸しの食事である必要はなかったんだと気がついた。つまり惰性で酒量が増えていただけで、毎晩酔っぱらっているうちに鈍感になっていたということ。おかげで就寝前にたくさん本が読めるようになって、新鮮な充実感を味わっている。

ミネラルウォーターは、炭酸の刺激の強いものを選んだ。酒の刺激を、炭酸の刺激に置き換えて、無理なく節酒できるように工夫したのである。それ自体が味わって飲んでも美味しい水なので、早朝の起き抜け時に飲むとすっきりと目が覚める。いっそのこと、そのまま朝のランニングに出れば素晴らしいのだが、そこまで頑張るとかえって健康に悪いような気もするのである。

2007年10月27日土曜日

「人生論」って、どうなのさ

「人生論」というものを嫌ってきた。今更いい年下げて、他人の安っぽい自慢話など聞きたいとも思わないし、読んでみようかとも思わない。そんな暇があるなら、もうちょっと生産的なことに時間を費やした方が有益ではないかと思っている。

しかし、どう考えても正答のない込み入った状況に足を取られ、何も見えない泥濘のただ中で、ため息をついて周囲を見回す自分を想像する。いや別に悲観してるわけでなく、疲れてもいない。まして、こんな風な生き方に何の意味があるのか、などと愚かしい疑問を持つこともしない。ただ、声を掛ければかろうじて届く距離に、たまたま同じようにもがいている人がいるとしたら、ちょっと挨拶をしたい気分になる。そこで思わず手に取ったのが「途方に暮れて、人生論」なのだ。

おそらくは、数値化し易いゴールを設定し逆算して、ひたすら目の前の小さな目標を消化する生き方が有効性を持った時代は終わっている。そしてゴールは見えないのが当たり前の時代では、未来に保険をかけるのはきわめてリスキーなのだ。だってそれは曖昧な未来を根拠なく信じているに等しいから。私たちに何が必要かというと、解答を求めるのではなく、状況を把握し粘り強く楽しむ姿勢なんだ。今すべきことは、時間を掛けて繰り返し問うこと、想像すること、他者を知ること、その他即効性の期待できない細々とした作業を諦めずにやり続けることだ。

この人生論には解答がない。あるのは著者の「途方の暮れかた」に対する愛着だ。自らが関与する余地が小さいと感じる控えめな人生観と、その一方で予想外に力強い幾つかの信念。学生の頃、解答の付いていない問題集を解いたことがあるが、一冊終える頃には正答が示されない不満より、むしろ自分が大人に近づいたような不思議な満足感を得た。この本には、それに似た面白さを感じたのである。

・「途方に暮れて、人生論」保坂和志

2007年10月24日水曜日

手帳の季節

このあいだまで、蝉が五月蝿くてかなわないと思っていたら、もう年末を意識する季節。例年の如く、mujiで新年度のスケジュール帳カレンダーを買ってきた。mujiはころころと商品を変えるので心配していたが、去年と同じ商品が出ていたので取り敢えずひと安心。

スケジュール帳は左面が1週間、右面が方眼ノートで、雑記事項が多いわたしにはぴったりの品だ。そして必要最低限のデザインなので、自由にカスタマイズできる点が気に入っている。ただ、表紙の材質がゴム引きみたいで、手触りに若干難ありだ。

カレンダーは小さいので、わずかなスペースがあればどこにでも置け、とても使い勝手がいい。特に、この黒字に白抜きのカレンダーは、机上の雰囲気を引き締めるのに、ちょうどいいアクセントになる。

2007年10月20日土曜日

英和辞典

田中菊雄の「英和岩波辞典」が古本屋のワゴンに投げ出されていた。古い本なのに箱も中身もきれいで、ほとんど使われた様子も見られない。究極の英和辞典と呼ばれたものが、捨て値で処分されているのが可哀想になって、必要もないのに思わず買ってしまった。

もちろん電子辞書もあり、最新の英和辞典も持っているのだが、どちらも今ひとつ好きになれない。電子辞書は便利だが潤いがなく、幾ら使っても自分の道具と言う実感が湧かない。最新の英和辞典は使い易いのは確かだが、その大きさと安っぽいビニールの表紙が気に食わない。そして、そもそも英和辞典がなくては困るというような生活はしていないので、本来そういうレベルのものは要らないのだ。

いわば義務として学習しなくてはならない人ならば、性能本位の辞書が必要だろう。しかし、大の大人が自分の都合で辞書を使うのだから、やはりそれぞれに要求するものがあり、それが見た目の美しさや手触りといった感覚的なものであってもいいはずだ。そして、いつもの我がままなのだけど、辞書も道具である以上、美しく、簡素で、いつも傍に置いておきたいと思わせる雰囲気が欲しい。

それには、辞書は現行サイズより一回り小さいバイブルサイズがいい。表紙は皮革である必要はないが、テカテカ光るビニールは最悪だ。やはり手触りが重要だと思う。普段からテーブルの隅に放りっぱなしになっていても浮くことがない、落ち着いた色と質感のある素材が好ましい。そしてこの岩波の辞書は、そういう要求にぴったりと当てはまっているのだ。

たしかに内容的には古いかもしれないが、突っ込んで調べたければ手段はいくらでもあるのだから、あくまで日常の友という感覚で使うのには十分だ。また十分古いのだから、これ以上古くなることはないという、奇妙な安心感さえある。むしろ、コンパクトでしかも上質な辞書というのが見当たらない今、この岩波の辞書は却って貴重なのだ。そして、英語使いだった父の書棚にも並んでいたこの辞書をようやく手に入れ、なんだかとても嬉しいのである。

2007年10月14日日曜日

冷蔵庫のこと

世の中にホームページが認知されていった初期の頃、他所の家の冷蔵庫の内部を撮影していたサイトが面白かった。人並み以上に好奇心が強いので、わたしも他所の家の様子がとても気になるのである。巨大な冷蔵庫の中に一体何が詰め込まれているのか、想像するだけでもホラーなのだ。それでタイトルで引きつけられて読んだのが、「冷蔵庫で食品を腐らす日本人」である。

刺激的なタイトルとは異なり、内容は戦後の食文化の変遷と資源・環境問題の現状を平易で軽妙な語り口で綴った、なかなかの良書である。食の問題は個々を突きだすと複雑できりがないので、短時間におおざっぱに全体を俯瞰するにはちょうどいい量。特に日本の漁業の変遷と世界的な潮流などは、消費者として知っておいて損はないと感じた。そして「あとがき」のエピソードは、小津映画のようにしみじみと心に残った。煎じ詰めると「食」とは、感謝する心なんだなあ。

さてさて、そこで初公開、我が家の冷蔵庫である。2ドア200リッターの冷蔵庫の内部は、基本的にいつもガラガラで素っ気がない。上段の肉や魚専用棚は不必要なので、取り外して何種類かのチーズやバターなどの置き場になっている。撮影した時は、買い物から帰ってきた直後なので、いつもより込み合っている状態だが、それでも中を秋風が吹き抜ける風情がある。さすがに冷凍庫は、作り置きのソース類や食品をストックしているので、もうちょっと込み合っている。

このように素っ気ないのは、我が家では冷蔵庫を食品をストックする場所ではなく、一時的な保管場所として使っているから。食料品のストックは、基本的に近所のスーパーマーケット頼みなのである。思うに家の外には、常に新鮮な食品を供給できる巨大システムがあるのだから、必要な物を、必要な時に、必要なだけ調達できる以上、都市生活には冷蔵庫は基本的に不要なのかもしれない。

2007年10月12日金曜日

セタビ


夕方の散歩がてら、世田谷美術館へ。企画展は「福原信三と美術と資生堂」。福原信三のことは知らなかったが、著名な写真家でありながら、名経営者として資生堂のコーポレイトアイデンティティを確立して、事業発展の礎を築いた人だということだ。当たり前なのだろうが作品はどれも素晴らしく、いやはやたいした才人なのだ。

わたしや、そして妻も、化粧品にはほとんど縁がないが、資生堂のモダンな容器や格好のいいコマーシャルは大好きだった。美術館に展示された化粧品の現物やポスターを眺め、当時の風俗や世相のちょっとした思い出話をし、若く潑溂としていた、その頃の日本の景色を振り返る。あのころの資生堂は際立って「リッチでスマートでモダン」だったはずだが、今では何の印象もない平凡な企業になっているが寂しい。

資生堂のコマーシャルと言えば、杉山登志。子どもの頃からテレビ番組よりもコマーシャルが好きだったので、運良く彼が亡くなる直前の作品を観たのを覚えている。短いコマーシャルが描いた、思春期の少年の憧れ。わたしにも身に覚えがあるだけに、今観てもどこかがチクチクするのだ。

影の形も明るくなりましたね「目」

2007年10月10日水曜日

飯椀


人は両手に持つ以上のものは持てない。特定の思想や宗教に思い入れはないが、いつからかなんとなく身につけた信条である。両手にいっぱいモノを持てば自由がきかない。だから出来るだけ手ぶらの状態が望ましいが、現実にはそうも言ってられず、そこでいろいろと妥協する。

わたしにとって、白いメラミン食器は、そういう信条の象徴のような存在である。モノとしての必要最小限の潔さや徹底した実用性など、メラミン食器のモノへの執着を拒絶するような雰囲気に強く惹かれた。そして新生活を始めるにあたり最初に揃えていったのが、メラミンの皿やドンブリだった。食卓は学生寮の食堂のような有様だったが、家庭的な匂いが希薄な分だけ居心地は悪くなかった。

さすがに今ではメラミンの器で食事するという根性はなくしてしまったが、信条の方はまだ強く残っている。ただ他方では年相応に贅沢したいという欲求も強く、それがいつも葛藤の原因となる。質素でありたいし贅沢も楽しみたい、その妥協の産物ような食器がこの陶器の茶碗。麦や雑穀まじりの飯でも、これにふっくらと盛ると、不思議と贅沢な気分になる。韓国の有名な陶芸家の作だが、メラミン食器の気分で使っているうちに、迂闊にも作家の名前を忘れてしまっていた。

2007年10月7日日曜日

小人閑居して

毎日のようにトホホなオヤジの破廉恥が報道されている。その歳になって何を考えているのやら、人生80年の後半戦を一体どのように過ごすつもりなのだろうかと、他人事ながら心配になる。だからオヤジは暇を作ってはだめなのさ、仕事のない日はおとなしく家事に勤しみなさい。と、昔の人が言ったそうな・・。

というわけで、ひとりで過ごす休日は、いかに天気が良かろうと遊びには行かず、料理だ掃除だと色々に忙しいのだ。そして本日のハイライトは、この道うん十年のトマトソース作り。いや特別なことは何もなく、外で食べるイタ飯が美味いと思ったことがなく、ならば自分で作ったほうがマシという程度のことだ。

コツは唯ひとつ。トマ缶とオリーブオイルを安売りでまとめ買いをして、ひたすらローコストで作ること。調理はどのようにでも適当に。わたしの場合は、トマトの軸を除くという事と、ニンニクを焦がさないという事、玉ねぎはじっくりと煮るように炒めるという事だけを守っている。味はあとからついて来るでしょ、というスタンスなのである。

2007年10月6日土曜日

ウェグナーの椅子


ウェグナーの椅子を知ったのはいつだったか忘れたが、初めてそれに座ったのはスキー帰りに立ち寄った保養所でだった。長年にわたって憧れた椅子に深く腰掛け、ペーパーコードのクッションの具合を探り、木肌の手触りや肘掛けのカーブなどを、撫で回すように確かめた。そして、それからも毎冬のように保養所に宿泊し、その度にウェグナーの椅子に座り、二人で椅子の座り心地を確認し合ったものだ。

それから更に何年も経って、ようやく古い椅子を片付けてウェグナーの椅子を買う決心をした。そして店先で現物を前にして、最後のチェックをしていたときに、微かな不都合を感じた。それは椅子から立ち上がり身体を離す際に、肘掛けの先端が足に引っかかるのが原因だった。座りっぱなしだったら問題はないが、ふたりして始終キッチンと居間を行き来するので、その度に椅子に絡み付かれては具合が悪い。そして、家具としての美しさを優先するか、実用性を優先するか、再び議論し合って出した結論が、ウェグナーを諦めることだった。

だがウェグナーのデザインはきわめて合理的だったので、改めて異なるデザインの椅子を探すのも無駄に思われた。そこで探し出したのが、これに近いデザインの日本製の椅子だった(写真・上)。なによりも肘掛けが短く、邪魔にならないのが良かった。そして座面が固めなのも好みだった。欠点はデザインが似すぎていることだが、そこは実用性の観点から敢えて目をつむることにした。

そして、似たものを購入するという後ろめたさを埋め合わせるために、また予算が余ったということもあり、当初予定していなかったスツールもあわせて注文した(写真・左)。受注生産のため手元に届くのに時間はかかったが、日本の巨匠がデザインしたそのスツールの座り心地は、私たちの長い時間と試行錯誤の偶然によってもたらされたものだけに、また格別なものである。ウェグナーの椅子を日常で楽しむというチャンスは失ったが、それは生活スタイルの違いであり、残念だったがそれほど後悔もしていない。

「ウェグナーに座ろう」

2007年10月5日金曜日

「犬を飼う」

喫茶店が町のあちらこちらにあった頃、休日などはマンガを読みに、お気に入りの店に通ったものだ。コーヒーが取りたてて美味いわけでなく、ひっそりとした裏通りにあって、夏でもひんやりとして、どこかカビ臭いようなありふれた喫茶店だった。そこで一杯のコーヒーを注文し、備え付けの本棚から何冊かのマンガを読むのが習慣になっていた時期があった。

その当時、読んだ覚えのある谷口ジローのマンガを、再び読み返してみた。「犬を飼う」である。読んだ覚えがあるというのは、幾つかのカットは明確に覚えているが、特別の感慨がなかったからだ。しかし改めて読んで、ああそういうことだったのだと、不思議な懐かしさと寂しさの入り交じった感情に浸された。つまりそこに描かれた心象風景が、初めて読んだ時は理解できず、そしていまでは振り返って見る景色だったからだ。

「犬を飼う」は、作家自身の15年間にわたる愛犬との生活の、犬の老いに寄り添い、最期を看取るまでの月日を描いている。読み切りの短編マンガという制約のなか、抑制された筆致で、淡々と愛犬の姿を描写する。その静かな光景に、胸を突かれるような愛情と悲しみを観る。そして「そこには広々とした河原があった」という言葉に、愛犬と暮らした月日と命の流れ、通り過ぎた時間のいとおしさがすべて凝縮されていると感じた。

町の片隅にひっそりと残っていた喫茶店は姿を消し、窓際でマンガを読んで時間を潰す見慣れた光景もなくなった。ありふれた場所、ささやかな時間、失ったあとでその大切さに気付くのである。