2008年5月26日月曜日

「みなさん、さよなら」

このところ、観たかった映画が立て続けに放映されて、とても幸せな状態が続く。近々整理統合される予定の衛星放送が、置き土産のように良質な映画を流してくれているからだ。ここが消えてしまったら、もうテレビを見る価値がなくなってしまうので、残り少なくなった古ビデオテープをやり繰りして、せっせと映画の録画に励んでいる。

先週観た中で印象に残ったのは、カナダ・フランス映画の「みなさん、さようなら」と黒澤明の「素晴らしき日曜日」。とくに初見となる「みなさん」は、しみじみ良かったなあと思う。アカデミー賞を受けた難病モノということもあり、世評を割り引いて見始めたのだけど、こころに届くお下劣な台詞に引っ張られて、たちどころにストーリーに引き込まれてしまった。

登場人物で魅力的だったのは、病院付きのシスター。死を前にした主人公の皮肉や悪口に対して、反論したりたしなめたりするのではなく、少し悲しげな表情でじっと話に耳を傾けるのだ。治癒の困難な患者に必要なことは、患者の話を心を込めて聴くということ。その聴くという行為を通じて、孤立しそうになる患者を受け入れ、あなたは独りではないというメッセージを送り続けることが重要なのだ。そして病院を出て行く主人公に送る、シスターの「アデュー」という一言を、これからも無数の人たちにも言い続けなくてはならないということを想像すると、なぜか無性に切なくなった。

この映画のテーマの1つは、まぎれもなく安楽死の問題にある。自分であれ、家族であれ、誰もが直面する可能性のある問題だ。この映画のテンポの良さに流されて見落としがちになるのは、患者の望むことをすべて満たしてやることが、果たして正しいと言えるのかということ。仮にわたしが患者ならきっとそう望むだろうが、家族の立場になったときに割り切れるものだろうか。答えの出せない難しい問題である。美しい湖畔の別荘で、家族や友人、理解のある人たちに囲まれ、こころ穏やかに最期の日を迎えるという最後のシーン。それは誰もが望む最期だろうけど、それは夢物語として過剰な期待は持たない方が、かえって幸せなのではと思った。

2008年5月24日土曜日

新聞を読む人

業界団体の調査では、新聞購読者の割合は調査回答者の92パーセントに及んだという。数字には嘘がないと信じたいが、だから新聞は依然として有力なメディアであるとの解釈はいかがなものであろうか。こういった調査につき合う人たちは、時間のゆとりとマスメディアに対する敬意を失っていない高齢者くらいだろうから、そうした結果は集計しなくても容易に想像がつく。

わたし自身の感覚では、むしろ新聞の購読者割合は明らかに減少している。ほんの一時期だけ新聞配達した経験があるが、その当時は配達地域に限っては、ほぼ全世帯が購読していたと記憶している。しかし昨今、新聞回収日に出される新聞の量が半減していることからみて、その割合はとても9割には届かないという印象をもつ。またそれは、新聞広告の質や量の劣化からも見て取れる。変化に敏感な企業は、商業新聞という媒体に、すでに見切りを付けている。もちろん個人が目にする範囲での、いい加減な印象だが、すくなくとも落ち目のテレビ放送業界と変わらない状況だと言えるのではないか。

新聞が購読されなくなってきている理由は多々あろう。わたしには、不特定かつ均一的な多数者を相手にする新聞という商品が、すでに時代遅れになっているのが原因だと思える。社会の変化の激しい時代では、価値観や意見が細分化して、「多数」という市場がなくなっていく。それに伴い、多数を取り纏めるというマスメディアの機能も不要となった。その帰結が今の新聞の姿である。厳しい時代を生き延びなくてはならないわれわれに必要なのは、権威を帯びた特定の意見ではなく、新鮮で多様、雑多な情報である。そして、これらをどのように判断をするかは、わたしたち自身でなすべきことが要請されている。間違っても、それは新聞の役割ではないのだ。

こう言いながらも、わたしは学生の頃からずっと、新聞購読を続けている。新聞を読み始めたのは小学校からであり、新聞に対する愛着も人並みにある。しかし今では読むのは見出しと広告くらいで、記事まで読むことはなくなった。寂れて空洞化する地方の駅前商店街、わたしにはそれが今の新聞のイメージと重なってしまうのだ。自身の商品イメージとのズレを直視しないと、新聞事業は早晩行き詰まるのではないかと他人事ながら心配なのである。

2008年5月19日月曜日

美術館と銀ブラ

土曜は家事に勤しんだので、日曜は街に遊びに出かける。地下鉄を乗り継いで最初の目的地は、首都高の脇にひっそりと建つ個人美術館。ちょうど今、浜口陽三、南桂子両人の作品が掛かっているので、このタイミングを逃したくなかったのだ。浜口陽三の作品はこれまでも何度か目にしていたが、南桂子の方は実物鑑賞は初めて。冷たい秋風が吹き抜けるような、寂寥感の漂う情景が特徴的である。

美術館は古い倉庫の改装だということだが、地階と地上階の合わせて2階の小さなもの。都心とはいえ裏通りの目立たない場所にあるので、日曜というのに来館者もまばらである。せっかく魅力的な作品が多いのに、なんとももったいない話だ。だけど、あぶく銭の処理に困って、取り敢えず客寄せになればいいかという風情の美術館に比べれば、よほど好感が持てるのである。こんな美術館が増えていけば、この街はもっと楽しくなる。

美術館を出て、向かいにあるセルフのうどん屋で簡単な昼食。かけうどんと竹輪の天ぷら。食後は再び地下鉄に乗って銀座へ行く。銀座へは仕事で立ち寄るばかりで、純粋に遊びの目的で行くことは稀なのである。いつも時間を気にして、慌ただしいことこのうえない。だから今日は観光客になったつもりで、地下の案内所に立ち寄って東京のガイドブックと地図をもらって「銀ブラ」をする。

中央通りは歩行者天国になっていたが、好天なのにどこか閑散とした雰囲気。通行人の話し声が、ビルの谷間によく響く。「むかしは、歩道を歩くのも大変だったのに。」と振り返る妻。人ごみがあれほど嫌だったのに、いざ空いてくると妙に寂しさを感じているようだった。銀座のホコ天、もう要らなくなったんじゃないかなあ。

銀ブラと言っても一応目的があって、画材店でクロッキー帳を探すことだった。いつもは伊東屋と決まっているのだが、今日は時間に縛られないので、少し離れた月光荘まで行く。普段は行かない街なかをジグザグと歩いてみると、見慣れた古いビルがほとんどなくなり、見知らぬビルに建て変わっている。わたしにとって、銀座は、まったく記憶喪失の街なのだ。

2008年5月17日土曜日

バスケットシューズ

よく晴れた貴重な休日。漫然と寝ていてはもったいないので早起きをして、汚れた窓を拭き、くすんだカーテンを洗濯する。洗ったカーテンは脱水せずに軽く絞り、そのまま窓に吊して自然に乾かす。サラッとした初夏の風が部屋に吹き込んで、洗いたてのカーテンを揺らし、見る間に水気を蒸発させる。すっかり乾いて、窓際で軽くはためくカーテンを眺めながら、若く爽やかな時間を楽しむ。

天候の悪い日が多かったので、戸棚から湿った靴を出してきて、風通しのいい場所に並べて乾燥させる。土や埃を払い、ついでに靴磨きもする。機械的に手を動かしながら、あれこれと来週の予定を思い返す。考えてみると、日常の大部分は、洗ったり、干したり、磨いたりと、生活を維持するための些末で無意識な時間で埋め尽くされている。いくらかの金を払えばすべて人任せにできるのだけど、この時間がなければ、生活することの重みはどこで感じることができるのだろうと思う。

写真は、このあいだの旅先で、ふっと思いついて購入したバスケットシューズ。学生の頃は好んで履いていたが、ずいぶんと長い間ご無沙汰だった。知らないうちに失ったものたちの、ひとつひとつを取り返すような気持ち。そんな気分で、このバスケットシューズを楽しんでいる。最新設計のウォーキングシューズにはない、ダイレクトで素朴な履き心地が魅力である。

2008年5月11日日曜日

「ヨーロッパ退屈日記」

日曜の朝のテレビ番組で進行役を務めていた俳優が、とても強く印象に残っている。番組の前半ではざっくりとしたジーンズ姿かと思えば、その後半では、打って変わって堂々とした和服姿で登場した。その動と静の切り替のセンスが見事だった。外国の映画にも何本か出演していたが、どこか貴族的な風貌に、颯爽とした立ち居振る舞いが、滅法格好が良かった。その後、映画監督を本業とするに至ったが、沈滞した日本映画界を生き返らせるような働きをした。そして、老いた姿をファンに見せることなく、この世を去っていった。

このエッセイ集は、伊丹十三の作家としての出発点となった作品である。タイトルは「ヨーロッパ退屈日記」となっているが、それは旅行記というよりも、海外生活での身辺雑記といった内容だ。しかし、かえって伊丹十三の息づかいがよく感じられ、その文章を追っていると、やや甲高く特徴的な彼の声が、昨日のことのように思い出される。そして、自信たっぷりで遠慮のない文章の背後にある、プリンシプルを重視し、多勢に流されまいとする著者の美意識が、読者を爽快にさせると同時に、どこか不安定な危うさをも感じさせる。ただ、この本は、日本人が経済大国に向かって、息せき切って馬車馬のように働いていた時代のものだ。そういう時代の奔流のただ中に立ち、スタイルのある生き方や、上質な生活の大切さを説くには、やはり世間に向かって啖呵を切るような激しさが必要だったのだろうとも思う。

気になることがひとつ。アメリカ(語)を軽蔑し、中産階級を疎む伊丹の感性や趣向は、どうしてもある人のことを連想してしまうのである。はたしてエッセイの中に「休暇でヨーロッパに来ている友人の白洲夫妻に、ジャギュアをスペインまで持ってきてもらう。」との、さりげない一文。あの時代にそういうことが出来る白洲さんと言ったら、あの人の他に思いつかないのだがどうなんだろう。

「ヨーロッパ退屈日記」伊丹十三

2008年5月10日土曜日

フロアライト

人は歳を取るにしたがって、暗い場所での目が急激に利かなくなるらしい。特に瞳の色が濃い人の場合は、そうでない場合より余計に不自由するということだ。子供の頃は、「真っ暗になるまで遊んで!」と毎日のように叱られたものだが、子供の視力ではちっとも暗さを感じていなかったのだろう。それが今では、日の落ちる前から照明を点けないと不便なことこの上ない状態なのだ。

今まで使っていたフロアライトは、目ががんがんに見えていた頃に買ったのなので光量に乏しく、近年とみに暗く感じるようになってしまった。そこでもう1つ余分に同じものを並べようと考えたが、すでに10年前に店頭から消えていて入手不可能という状況。一度買うと長い付き合いになるので、本当に気に入ったものが見つかるまではと思い、これまでずいぶんと我慢していたが、そろそろ身体的な限界が来たようなのだ。そこで取り敢えず妥協できるもので、本命に出会えるまでの一時しのぎのため探し出したのが、例によっていつものショップのもの・・・

せっかくの鉄製の丈夫なスタンドが残るで、これを再利用すべく、クリップの付いたライトを選び、それを必要な数だけ取り付けるというアイデアなのだ。実際に組んでみると、クリップが目立つのが玉に傷だが、自由にライトの方向が設定できるので、はじめ考えていた以上に便利。このままではいかにも芸がないので、スイッチの付いたコードを何もないのに付け替えて、フットスイッチに繋ぐとそれらしく見えるだろう。ついでに部屋の雰囲気に合った色でも塗ったら、我が家特製フロアスタンドの出来上がりである。しばらくは、ライトに色見本を貼付けて、あれこれと愚考してみるつもり。