2008年9月20日土曜日

「暴走する資本主義」

巷で評判の「暴走する資本主義」を読んだ。ライシュさんの本は、「勝者の代償」以来2冊目になる。前作を読んだ時にも感じたのだが、現代というのはバランスを欠いた、しかも高速で回転するコマのようだ。左右にひどく揺れながら、人心を荒廃させ、環境を破壊し、あらゆる人たちを世界から放り出していくコマだ。

もちろん自分には罪はないと、白々しいことを言うつもりはない。そもそもが、人々が利便を追求し、より良いものをより安くと一斉に動き出したことが、今のような経済的混乱を招いているからだ。わたしだって、Amazonで本を購入するたびに、地域の本屋を追い詰め、宅配によって環境に負荷をかけることに貢献しているに違いない。引退後に楽をしたいために、金融商品を購入することだって、企業に対する脅迫になっている。だからどうするんだよと、詰め寄られても、いいアイデアなんて浮かんでこない。

彫刻家に聞いたのだが、粘土で肉付けをする時、その部分の反対側も必ずバランスを取るようにするという。形造りのお約束である。翻って現代社会は、便利さを追求して、その反対側の肉付けを忘れてしまった。富の蓄積を追求して、その反対側に何を肉付けするかを考えなかった。失敗した作品はどう手を加えても直せないのだから、さっさと土の塊に戻したほうがいいのだが、あいにく人間社会はそうはいかない。もしも子供に、この経済的カオスについて質問されたら、わたしは一体どのように答えればよいのだろう。

2008年9月19日金曜日

水とか紙のこと

縁側に一杯の手水盥を持ってこさせ、最初に口を漱ぎ、次に顔を洗い、絞った手拭いで体全体を丁寧に拭く。そして手拭いを洗って軒先に干した後、最後に盥に残ったわずかな水を庭の草木に遣る。それが漱石だったか鴎外だったかの、朝の身支度光景であったという。ずいぶんと前に読んだ随筆に書いてあったことだが、古き良き頃の日本人の、無駄のない暮らし方が強く印象に残ったものだ。それを単純に貧しいと受け取るか、豊かと受け取るかは価値観の問題だろうが、わたしにはそれがとても格好のいいライフスタイルだと映った。

思うに、家計の節約といった問題でなく、はたまた環境保護とかいうお題目でもなく、それは日常作法の問題なんだろう。たとえば針の一本にすら価値を認め、役割を終えた後は供養までするといった心遣いもそうである。合理主義者には、その風習は野蛮なアニミズムとしか映らないだろう。しかし世界を経済論理で解釈しようとする傲慢さこそが不幸の原因に思える。必要以上に大量の水を使ったり、理由もなく食事を食べ残したりするのは、経済的に問題がなくとも、どこか下品な風習と感じるのだ。

写真は、溜まる一方のパン屋の紙袋の束。どこででも同じ種類のパンしか買わないので、自然と似たような紙袋が集まってくる。だがそのまま捨てるには忍びないので、丁寧に切り開いて台所の隅に保管する。パン屋の紙袋は適度な張りがあり、油をよく吸うのですこぶる使い勝手がいい。これをまな板に敷いて調理したり、コンロの周辺に敷いて飛び散る油を吸わせる。そして最後に、鍋やフライパンを拭ってからようやく、納得して紙を処分するのである。

2008年9月17日水曜日

家の本

3年前に、突然家を持ちたくなって、土地や古家、果ては集合住宅まで、時間の許す限り見て回った。その時、いつも念頭にあったのは、ある住宅のことだった。小さいけれど、非の打ちどころのないほど完璧な、人の暮らす場所。暑い寒いはあるかもしれないが、それを脇に追いやるほどの、安らぎの得られる場所。すべからく、家とはそういうものでなくてはならないという、わたしにとっての家のお手本だった。


その家を自邸とする建築家自らが語った、魅力ある家の種明かし。それが、「中心のある家」という本である。通常の専門書とは違い、子供向けにぬり絵ができるよう絵本の体裁をとっているが、その内容は凡庸なマイホーム本とは比べ物にならないくらい示唆に富む。

「どうしたら暮らしを楽しむ家になるのでしょう」

人生の重要な目的のひとつに、暮らしを楽しむことがある。そのために、家の果たす役割は大きい。したがって家そのものが、暮らしを楽しくするものでなくてはならない。上記の問いかけは、単純だけど力強い、家の一般原理というべきものだ。

と同時に、それはどこまでいっても暮らしに豊かさが感じられないという、われわれ日本人への問題提起でもある。アパート、マンション、庭付き一戸建てという、必然性のない住宅双六に、何の疑問も差し挟まない没個性のくらし。男子一生の目的というわりに、無表情の建売に、判で押したような高級車を押し込んで、それで一丁上がりと済ませられるのだろうか。

暮らしが貧しいと感じるのは、住宅の狭さや不便さに責任があるのではない。暮らしを楽しむことに真剣になろうとしない、その怠惰な習慣が問題なのだ。この本を読んで、そんな風に思った。子供向けの本という建前だが、まずは大人にこそ読んでもらいたい本である。

2008年9月15日月曜日

そしてまた・・・

土曜日に引き続き、日曜日もまた美術館めぐり。一足早く芸術の秋と言いたいが、しかし秋というには蒸し暑く、自転車にまたがり数十分、美術館に着いた時にはすっかり汗びっしょりである。さてこの展覧会、テーマとしてはとても興味深いが、見せに方要工夫だった。「難しくて、よくわからないよ。」という、老人の独り言が耳に残る。やはりこういう人の場合、屋外でドーンと展開しないと面白みが発揮されないのではないだろうか。


そして今月末は、横浜トリエンナーレも予定に入れている。どのような作品に出合えるのか、今から楽しみだ。

2008年9月14日日曜日

夜の美術館

夜になり、きれいな月が出てきたので、おんぼろバイクでナイトツーリング。行く先は、渋谷の美術館。週末は夜9時まで開館していて、その時間帯はじっくりと鑑賞したい人だけの、理想的なコンディションだろうと読んだのだ。そして、その読みは的中し、昼間の美術館とは違い、小人数だけの緊張感の漂うギャラリーで、思う存分絵を楽しむことができた。

今回のお目当ては、やはり「オフィーリア」。密かに「河童の川流れ」と命名しているが、「それは気持ちのよい様子を言ったものではありません」というのは百も承知の上である。魂を引き裂く苦しみから今まさに解放されようとする、若い女性の最期の姿。ある意味グロテスクな題材だけど、光を失い虚空を見つめる両目とあまりに美しい川の流れの対比に、その絵を観る者を虜にする魅力がある。じっと見つめていると、絵の中から深いため息と、呟きのような音が聞こえる。

閉館時間いっぱいまで粘って、小腹が空いたので店を探しに周囲を歩くが、あたりは表現に困るほどの猥雑さだ。美術館ができた当初、まだ大人のナイトスポットという風情も残っていたけど、これでは作品の余韻を楽しみつつちょっと食事でもして行こうという気にならない。たくさんあった書店もあらかた姿を消し、危険な雰囲気だけが残った渋谷には、もう用がなくなってしまっている。

2008年9月8日月曜日

収穫

近年、世間で劇的に認知された野菜といえば、やはりゴーヤー。以前はスーパーで投げ売りされてたゴーヤーの前を、だれも気をとめることなく通り過ぎていたものだ。わたしはと言えば、当初ワタを除くことも知らずそのまま調理して、いつもその苦みに辛い思いをしていた。そのうち図書館でチャンプルーの作り方を知り、あれこれ工夫してようやく料理らしい形になった。

ゴーヤーが食卓の定番になったころに、いきなりの琉球料理ブームである。スーパーの売り場の前で、手に取ってみる人をちらほら見かけるようになり、時には調理方法を聞かれることもあった。テレビの健康番組の影響もあったのかもしれないが、保守的な年配層の人たちの買い物かごにも入るようになった。あろうことか実家でも、時々食べているという話を聞いたので、ゴーヤーはすっかり定着したといっていいのだろう。

初めてゴーヤーを口にしたころ、どんなふうに実をつけるのかを知りたくて、中の種を蒔いてみたらあっという間に育ってしまい、ベランダの日よけにいいことを知った。そして、売り物のようにはいかないが、それなりに食べられる実をつけることも。今朝は、たぶんシーズン最後になるゴーヤーの収穫を行った。小さいけれども、いくつか一緒に合わせて調理すれば、一丁前のチャンプルーが楽しめるのである。

2008年9月7日日曜日

獺祭

夕暮れの街を散歩していて、あまりの蒸し暑さに、堪らず路地裏の小料理屋の暖簾をくぐった。夕飯どきにはまだ時間があるので、ビールと小鉢物でも食して行こうかと。

よく冷えたコップに注がれた生ビールの泡の白さを目で楽しみながら、先ずは突き出しの野菜の煮物を食すると、濃い味の素朴な調理が懐かしい。炎天下に汗を流して労働する人たちには、これがむしろ甘く感じるくらいであろうかという味だ。そう思っていたところに、タイミングよく作業服の若者が入ってきて、なるほどねとニンマリする。冷えてキリリと締まったビールに、喉が鳴る。

ちょっと気を良くしてメニューを開くと、真っ先に「新もののサンマのタタキ」が目に付いた。出てきた料理は、小骨の一本まで丁寧に除かれた、サンマの旨味だけが楽しめる上品なもの。サンマは舌の上でトロリと溶けて、それをビールで洗い流すと、また一口と急かされる。悪くない。

ビールを飲んだら帰るつもりが、こんどは「ナメロウ」を食べたくなり、それを選ぶのだったら日本酒を当てなくてはならない。酒飲みの悪い癖だ。リストを眺めて知らない銘柄を探すと、ケモノ偏に括られて孤独を感じさせる字を冠した酒が目に入った。音に出すと「だつさい」。かすかな屈託が耳に残る。字面と音に魅かれて飲んでみるが、銘柄の印象とは異なりさっぱりとした素直な味だ。ナメロウには、もう少し重心の低い酒が合うかもしれない。

ほろ酔いでうちに帰り、何冊か辞書を開いて「だつさい」の意味を問う。それは、参考書をいくつも開いて調べる様子を、カワウソが岸辺に魚を並べる様に例えたもの。そうかボクはカワウソなんだ、どおりで奇妙な親しみを感じたわけだ。窓の外では、強い雨風が木々の葉を叩き、そのざわめきが暗い岸辺でせわしく動き回るカワウソの姿を想像させたのである。

2008年9月6日土曜日

コーヒーポット

愛用のコーヒーポットが割れてしまい、慌てて発売元に問い合わせたところ、とうに廃番になっていて二度と手に入らないことを知る。ガラス製の平凡なポットだったが、なぜか似たようなものが見当たらず、困り果ててしまった。コーヒーが冷めてしまった時など、ポットを丸ごと電子レンジに入れるので、樹脂の取っ手や金属部品が付いていては使えない。だから、コーヒーポットはすべてガラスだけで出来ていなくては困るのだ。

どうしようかと考えあぐねていたところ、たまたま見つけたのが写真の水差し。適度なサイズで、しかも洗いやすい形をしている。水切れがよく、液だれしないのも美点である。そして何より、側面に計量メモリが印刷されているので、必要な量ぴったりのコーヒーを入れることができる。これまではメモリがなかったので、カップで必要な杯数分の水を薬缶に入れなくてはならず、ちょっと面倒だったのだ。

要求通りのものが見つかってひとまず安心。しかしまた割ると困るので、予備にもうひとつ必要かもしれないと思っている。