2009年2月28日土曜日

雑感

話題の映画「おくりびと」の紹介番組を見ていたら、庄内の美しい風景が映っていた。そこで登場した建物に見おぼえがあり、4年前の旅行で撮影した写真を調べると、やはり数枚撮影していたのを発見した。街外れから高台の公園に向かう坂道の途中に、一見廃屋のような建物を見つけ、それが妙に心惹かれる風情であったので記録しておいたものだ。

庄内は五月の中ごろだったが、雪をたっぷりと残した鳥海山の雄大な姿と、北国の澄んだ空気、初夏を迎える明るい日差しが印象的だった。しかしそれとは対照的に、街は眠っているように静かで、そのままゆっくりと記憶の彼方に消えていくような寂しさがあった。土門拳記念館に残された昔日の街頭風景は、それが幻であったかのように数多くの人々で活気があり、それがなおさら現在を感傷的に見せてしまう。その象徴的な風景が、写真に残した坂道の古びた家屋だったのである。

映画は観ていないのでいい加減なことは書けないが、興行収入につながっているということは、たぶん人々の心に「衰退」を受け入れる気風が生じているのではないかと感じた。見たくないものを受容れて、ありのままの現在を正視する姿勢が出来つつあるのか。庄内の街は老いていたが、決して醜くはなかった。しかし、最近訪ねたいくつかの街は、どこも悲しくなるくらい醜く寂れて、しかも荒んでいた。何十年にもわたる巨額の地方振興策の結果がこのあり様とは、誰がどのような責任を負うべきなのか、それを問われるべき時が来ている。

2009年2月23日月曜日

旅行手帖


去年の旅行から1年が経過して、家人より今年の準備、早うせんかいと矢の催促。少し先だが何とか時間をひねり出し、ぼつぼつスケジュールを考え始めたところだ。風の吹くまま気の向くままというわけにもいかず、まずは入り口と出口を確保して、それから点と点をつなぐ作業をする。

ただお互いに忘れっぽくなってきたので、大切な事柄はノートに書いておかないと面倒になる。そして旅行中の日記もつけておいて、それをまた次の旅行に役立てる。とりわけこの頃は田舎ばかりを巡っているので、あれこれと心配の種も尽きないわけで、そんなこと一切合財をサポートするのが旅行手帖である。

ちょうど一年前に、自家製手帖のエントリーを書いたが、昨日、本年度版の手帖を作製した。昨年度版は、ほとんど変更する必要がないくらい使い勝手がよかったので、今年はほんの少しだけの改良に留めるべく、裏表紙に当たる部分を切り落とさずにはみ出した部分を折り返して、手帖を包む耳を作ってみた。役立つといいのだけど。

2009年2月22日日曜日

シャンツァイ

借りてきた本の中に、シャンツァイのことが載っていた。曰く、香港で中華粥に散らされていたシャンツァイの香りに、著者はしばらく馴染めなかったという。わたしの場合、最初の出会いは故郷の中華街で食した中華粥だったが、しかし珍しい味がたいして気にならない性質なので、わりと簡単に慣れてしまった。それよりむしろ、粥にかけられた腐乳の方がハードルが高かったような気がする。そして著者によると、最近は随分と簡単に手に入るようになったということで、そういえば昼間に入ったスーパーでも、生きのいいのが一袋100円程度で売られていた。もちろん今はシャンツァイは好物であり、昨夜の野菜サラダもシャンツァイが主役だった。

男性にシャンツァイを苦手とする人が多いということで、確かにわたしの知り合いもことごとくそうである。とはいえ、日本列島以南の世界はシャンツァイが野菜のスタンダードなので、これに馴染んでおかない手はない。苦手な食材を好きになる簡単な方法はある。要するに、毎日、同じものを、たくさん食べ続けることだ。よほど妙なものでない限り、人間が普通に食するものは、たいてい美味いものなのである。まして敵はただの野菜、数日で慣れるはずだ。人様と囲むテーブルで、一人だけシャンツァイを子供のように選り分けながら食べる屈辱を思えば、その程度の訓練は何でもないと思うのだ。

もし慣れたら、酒の肴にチャレンジしてほしい。細かくむしったこんにゃくを油と唐辛子と多めの魚醤で炒め、魚醤の臭みが収まった頃に、ざく切りのたっぷりのシャンツァイをあわせて軽く炒める。もし魚醤が駄目なら、醤油でも可。真夏の晩酌に、異国情緒を楽しむ一品の出来上がりである。

2009年2月19日木曜日

売上60億ドルの黒字企業

スティーブ・ジョブズの流儀」を読んだ。アップルの創業者でありながらそこを追放され、そして10数年後、息も絶え絶えになった古巣に舞い戻り、見事な復活を成し遂げた伝説の主人公の話である。

実のところ古参マックユーザーでありながら、ジョブズのことはほとんど知らなかった。それというのもアップルの天才エンジニアたちに関心が偏り、ジョブズは有能で野心家の経営者という認識しかなかったからだ。しかし本書を読んで、それが大変な誤解であったことが分かった。アップルという企業とその製品、サービスは、ジョブズがとてつもない情熱を傾けて作り上げた、まさに彼の理想の体現だったのである。自分が今、打鍵してるキーのタッチ、今見ているアプリケーションのフォントのデザインや使い勝手や、その他のこまごまとしたことまで、自ら選び抜いた人たちで特別なチームを作り、それを独裁者として手足のように使って創造したものだった。

本書を経営の指南書として読むのは間違いだろう。なにしろ経営者のパーソナリティが、そのまま企業の個性として現れているのである。「スティーブの頭の中拝見」と言ったって、所詮は後知恵的な解説である。むしろ本書を参考とすべきなのは、それが一般的に許される集団、たとえば新興宗教団体のリーダーあたりではないかと感じる。それほどに、アップルという会社は特異な存在であると思う。

だからといって、本書を開くことが無益かというと、全くそんなことはなく、ここで語られていることの多くは、人生を平穏無事に過ごそうとしているわれわれに、本当にそれでいいのかと強い問いかけを投げかけてくる。誰もジョブズにはなれないが、彼の描いた理想の痕跡を指でなぞってみることくらいはできるのだ。そして時には、毎日世話になっているアップルの製品を眺め、一人の人間の情熱がどんなことをなし得たのかについて、はるか遠くに思いを巡らせるのも悪くない。

そして、この本に付箋を貼りつつ思ったことは、ここに書いてあることの数十分の一でも実行できたら、我々の表情はずっと明るく晴れやかになるのということだ。得意なことに集中し、それ以外は人に任せる。一人で重荷を背負い込まない。フォーカスとは「ノー」ということ。ゼロからのスタートを恐れないこと。そして、「くそ野郎になるもよし、情熱があるかぎりは」、「もし今日が最後の日だとしたら、今日やる予定のことを本当にしたいだろうか?」

「アップルは売上120億ドルの黒字企業にはなれないし、売上100億ドルの黒字企業にもなれないが、売上60億ドルの黒字企業にはなれる。」ジョブズがアップルに復帰して、会社を再生させようとしたときに語った言葉である。企業の部分を、個人、家庭、自治体や国に置き換えて、それぞれの立場で思考するとき、いかに困難な状況にあっても、そこに様々な希望が見えてこないだろうか。

2009年2月16日月曜日

「日本の「安心」はなぜ、消えたのか」

日本の「安心」はなぜ、消えたのか」  山岸敏男

安心社会の原理とは、固定メンバーの相互監視によって集団規律を維持し、安全コストを最小限に抑えようとする社会原理。相互監視という機能に依存するので、リスクをとって他人を信頼する必要がない。ただし、他者を排除する必要があるので、広く利益を得る機会は得られない。農村社会がその典型。変化の少ない、静かで落ち着いた暮らしを営める。個人利益でなく、集団利益を優先する社会でもある。

信頼社会の原理とは、安全コストを個人個人が負担して、他者と積極的に関係を結び利益を得る機会を広げようとする社会原理。他人同士が共存共栄する社会。仮に相互に騙し合いをすると取引が縮小し、各人の得る利益は少なくなるので、互いに信頼し協力し合うということが社会維持のための前提となる。ヴェネチアやオランダなどの商人中心の社会に特徴的。損得勘定によって、社会システムを柔軟に構築できる利点がある。

上記二つのモデルのうち、どちらが優れているかは、その社会の地理的条件、歴史的条件によって判断されるべきだ。江戸時代のように鎖国政策をとるならば安心社会の原理が妥当するだろう。しかし世界で最も高齢化した社会の福祉や経済を維持し、同時に後の世代を育てるためには、社会を今より豊かにしなくてはならない。このフラット化し急変貌する世界で生き残るためには、変化を恐れずに他者を積極的に受け入れて、取引チャンネルを拡大する必要がある。そのためには安心社会から信頼社会に速やかに移行しなくてはならない。

ただし信頼社会と安心社会は、水と油の関係。混ぜ合わせると社会が腐敗する。それがまさに今の日本の現状である。国民は政治に冷笑的であるにもかかわらず、行政サービスの拡大を求める。政治的エリートたちは、権益の追求にしか関心がないように見える。それぞれの社会集団が既得権を手離さず、変化を拒絶することで、国全体の活力が急速に失われている。そして悪いことに、そのもっとも変革の必要なときに、変化を嫌う高齢者層が増大して、この国は後数十年は身動きが取れなくなる。つまりゲームセット。

進化の過程で生き残る種は、強い種ではなく、環境変化に柔軟に対応する種である。個人のレベルでいえば、自らの意思で、生活環境や生活スタイルを選択できる人が生き残れる確率が高いと言えるのではないか。本書は、これからの社会の変貌を占い、個人がそれにどのように対処するかという疑問について、わたしたちに様々な示唆を与える。

そしてもう一冊。

この国を作り変えよう 日本を再生させる10の提言」 (講談社BIZ)

先の書は社会心理学からのものだが、この書は企業経営者からみた我が国の問題点を明快に抉っている。変革を急がなくては末代まで禍根を残すという点で、同様の結論である。

2009年2月14日土曜日

macな話

わたしが普段に使っているマックは相当に旧式なので、最新OSであるLeopardをインストールできない。加えて、このごろは興味のあるアプリケーションが利用できないことも多く、そういう場合は妻のマックを遠慮しつつ拝借することになる。幸いこちらは新しいので、あたかも軽トラックからスポーツカーに乗り換えたような操作感を味わえる。もっとも軽トラックでも文句を言わなければそれなりに使えるので、あと数年は辛抱したいと思っている。

ただ全体の使い勝手のことなど考え合わせると、できるだけ最新のものを入れておきたく、なんとかならないかと調べると一つだけ現実的な方法が判明した。つまり起動直後にOpen firmwareを呼び出し一時的にcpuの性能を偽装し、その隙にOSのインストールを実行するという方法。実際に試してみると、何の問題もなく当たり前のようにインストールされて、以前のバージョンと変わらない程度に快適に動作している。おそらくメモリをたっぷり載んでいるのが効いているのだろう。

さて、ここで真っ先にインストールしたアプリはEvernoteである。近頃あちらこちらで紹介されているが、言わばネットの向こう側に置いた雑記帳である。書き散らかしたものやコピーなどをスクラップしてくれ、ファイルのサーチ機能やタグ付け機能もありきわめて使い勝手がいい。それからDropboxも忘れてはならない。これは、向こう側に置いた書類入れとでも言おうか、例えばバックアップファイルなどを放り込んでおき、ほかのマシンで読み込んで同期させるのにもってこいなのだ。わたしは、このところ増えてきた蔵書CD管理ソフトBooksのデータのバックアップ先に指定して、非常に重宝している。あとは、Googleカレンダーのデータと、iCalを自動的に同期させるアプリとか、知らないうちに何かと便利なものがたくさん出てきている。根気と工夫さえあれば、何だって大切に使えてしまうのである。



などと大見えを切ってみたが、昨夜うちに遊びに来た姪が高校の卒業祝いにMacBook Proを貰ったというのだ。おじさんが中古の軽トラックで我慢しているというのに、年端もいかない娘が新車のフェラーリを乗り回しているという格差社会。うーん、正直うらやましいぞ。