2010年5月25日火曜日

角を丸める


ちょっとレアな、楽しい文房具を買った。写真のL字の隅っこ、金属部分に紙の角を合わせて、裏からレバーを押すと、たちどころに角が落ちて丸くなるという道具。

もらった絵葉書や気に入った写真を栞代わりにしたときなど、使っている内に角が潰れて醜くなる。それで、あらかじめハサミで角を丸めるのだが、意外にこれが簡単でなく、四隅のアールが揃わなくていつも気分が悪い。何とかならないかと予てから不満を持っていたところに、格好の文房具をAmazonで偶然見つけたのだ。

そもそも、この世の中に、「紙の四隅を綺麗に丸められない」という変な悩みを抱えている人が、自分以外にいるとは思わなかった。それに、その悩みを解決しようという、奇特な会社があるとは想像もしなかった。まあ、本当にバカみたいな道具だが、そういうものが存在するのがまさに自由主義経済の良いところなのである。

新聞


月に一度、新聞の勧誘がやって来る。それまでとっていた新聞を、当分の間必要ないからと、もう一年以上も購読を中断しているからだ。販売店とは長い付き合いで、それに彼らの熱意も理解しているので、やって来ても無碍にできず、いつも話を聞いた上で丁重に断っている。そして先日も、いつものように販売店の人と話をしていると、突然「どうか、助けていただけないでしょうか。」と言われ、暫し言葉を失ってしまった。

いきなり新聞が嫌になってしまったわけではない。むしろ子どもの頃から愛読していて、新聞の仕事への憧れもあったくらいだ。しかし消費税の導入が議論されていた頃から新聞の論調に疑問を感じることが増え、その後ずっと不信感を持ち続けて、終いには全然読まなくなってしまったのである。できることなら、新聞は「水道」と同じであってほしい。水道水と同じように、客観的根拠に基づいた事実を、主観を交えず、淡々と報道してくれればいいのだ。流れ出た水をどうするかは利用者の勝手であるのと同じく、何が重要なニュースで、それをどのように判断するかは、読者が決めるべき事柄だ。水を飲もうと蛇口を回したら、気味の悪い妙な色の付いた水が流れ出てくる様子を想像して欲しい。私が今の新聞に対して持つ印象は、ちょうどそういう感じでなのある。

新聞販売店の経営が大変なのは想像がつくし、助けを求められればそうしたいと思う。しかし肝心の新聞という商品が粗悪なままで、しかもその改善の意思も欠いているようでは、とうていお付き合いはできない。無慈悲な言い方だが、この右肩下がりの苦しい時代に年間5万円も払う高額な商品なのだ。真っ当な競争に鍛えられ、その金額に見合った価値を備えてなければ、新聞なんて誰も買わないだろう。

昨日、新聞社の業績悪化が止まらないという報道に接し、果たして新聞業界は顧客である読者と、かつて一度でも真剣に向き合ったことがあるのだろうかと思った。そして有名ブロガーさんの、この辛辣なエントリーを読み、もしかすると新聞業界は自己改革のチャンスを失ったのかも知れないと感じた。毎朝、刷り立てのインクの匂いがする新聞を広げるのは気分がいいものだ。同じニュースを読むのなら、パソコンやケータイより新聞の方が、絶対にいい。それに、やっぱり新聞のない朝は寂しい。新聞ファンは、新しい新聞の登場を待っている。

2010年5月23日日曜日

リエゾン

マイブームになってしまった感のある、わが突発的英語学習。朝は早起きして時間を作り、夜もちょっとだけアルコールを控え、就寝時間ぎりぎりまで頑張る始末。昨夜は、なんと英語で会話している夢まで見て、これは一体どうしたことだろうと自分でも呆れてしまう。たぶん、自分が気づかないうちに脳味噌が退屈していたのだ。映画「Shall we ダンス?」の主人公の場合は社交ダンスだったが、あのストーリーと同じように、わたしも一通り納得したら熱から覚めるのだろうか。

さて、英会話ゲームは、予定していたより順調に進展して、書き取りテストも少しずつ難しくなってきている。単語そのものは易しいが、音節の中にぎゅっと詰め込んで発音されると、日本語訳の手を借りても分からないことがしばしば。解答を見て、唖然とすることもある。そこで何とかしなくてはと、今度は発音の癖について書かれた本を借りてきて寄り道勉強をしている。

中高と同じクラスだった級友が、毎日欠かさずラジオで英会話の勉強していた。耳も良かったのだろう、あっという間に教師より上手になり、あまりの流暢さに教師が苦笑いすることもあった。そういう彼に刺激され、中学の頃は自分なりに研究して、なんとかお手本の読みに近づけようとしていた。そしてある日、授業で教科書を読むことになり研究の成果を披露したが、そのあとで英語教師に「君の発音はフランス語のようだね」と評された。すっかり気落ちしてしまい、その後は普通の読みに戻ってしまったが、それがいつまでも記憶に残り、進学して選んだ第二外語はそのフランス語だった。そして初めて、自分がしていた発音が「リエゾン」だったということを知った。

今時は英語の発音でもリエゾンの指導が、当たり前のように行われているようである。もしあの当時もそういう指導があったのなら、もうちょっとやる気を出していたかも知れない。発音の勉強をしながら、そういう古いことなど懐かしく思い出している。

2010年5月18日火曜日

ゲーム


使い古しの携帯ゲーム機をもらった。そして、もう必要ないからと、幾つかソフトも付けてくれた。これまでコンピュータゲームというものに、ほとんど触ったことがなく、そもそもディスプレーに向かって黙々とゲームするということが苦手だった。だけどこれだけ普及したものをただの一度も触ることなく一生を終えるのも悔しく、また何かの話の種にでもなればと思い、今回初めて携帯ゲーム機に手を出したのだ。

しかし、脳トレのゲームの方は、すぐに飽きてしまった。がっかりするような成績しか残せないということもあったが、それ以上にやっぱり性格的に慌ただしいゲームは向いてないからだった。そして、次に手を出したのが英会話のゲーム。これは、英語の書き取りテストをゲーム仕立てにしたものだが、これは不思議とけっこう意地になってやっている。初回の能力判定テストでは、爪楊枝のようなペンがうまく持てなくて、そんな訳ないだろうという結果に傷つき、慌てて100円ショップで買い求めたペンで再チャレンジしてから、なんというか、だんだんとゲームの深みにはまっていっている状態なのである。

英語の勉強をしたのは受験の時と、暇をもてあまして英会話のテープを聴いていた学生時代まで。その後は、読むことはあっても会話する機会はそれほどなく、せいぜい忘れないように時折、テープを聴き返したり文法や単語のチェックをする程度だ。必要に迫られなければ、誰しも面倒なことは嫌なものである。しかし、世界が平らになったこのご時世、話せないよりちゃんと話せた方が楽しいだろうし、それにわが相方の第二外語能力が近頃急上昇しつつあるので、こちらとしても戦略的にバランスをとる必要が出てきた訳だ。

ネットでこのゲームの利用価値を調べると、英会話の教材としてはかなり出来が良いということ。たしかにゲームの苦手な私が、まだ始めたばかりとはいえ、今後も継続できそうな感触があるので、勉強の友として安心して取り組めるだろう。ちなみに、再チャレンジした判定テストの結果は「外国人に道を訊かれても、なんとか理解できる程度」。これでは学生の頃と変わりなく、ちょっと不満だが、実際にはそんなところかもしれない。結果を謙虚に受け止めて、せめて半年くらいはこのゲームを続けてみたい。

2010年5月10日月曜日

自転車日和


せっかくの連休だったのに、4月の悪天候のせいで家事が山積してしまい、それを片付けるのに精一杯の毎日だった。ちょっと前まで着ていた冬物を洗濯したり、衣類の入れ替えや、暖房器具を仕舞ったり、いつもなら桜の咲く頃にやっつけていた仕事がすべて連休にしわ寄せされたのだ。おまけに植物たちの成育が悪く、春先の植栽も延ばし延ばしになり、もうこれ以上は待てないという時期に至って、いきなり気候が好転したため、慌てて準備を始めたという案配。それから棚を作ったり、ペンキを塗ったり、ガタの来た家具を修理したり、これらはもっぱら私の役割だが、おかげで朝から晩まで作業用エプロンを着っぱなしである。


しかし、よく晴れた5月の日曜を、一日中家事仕事で潰すのは人生の浪費だ。せめてこんな天気のいい日くらいは、何も用事がなくても出かけよう。自転車に乗って遠くまで行ってみよう。そう思い立ち、やり残した仕事を脇にどけて、何の当てもなく自転車のペダルを踏んだ。

私の住む地域は、地図で見る以上に起伏に富んでいる。道は狭く、しかも複雑に入り組んでいる。気まぐれに知らない道に入ると、全く方向違いに進むことも頻繁だ。だから余計に自転車を漕ぐ、見知らぬ坂を上り、丘の頂上からランドマークを見つけ、そこで初めて自分の場所を知る。またその繰り返し。


家を出て3時間程度のポタリングだったが、戻ってきたときにはびっしょり汗をかき、のどは渇いてカラカラ。そんなこともあろうかと、出かける前にビールを冷やしておいたのだけど、帰ってきて飲むビールの旨いことといったらない。あんまり道に迷うので、妻は途中で機嫌を悪くしていたが、それが一転、まるでとろけるような表情で缶ビールを飲み干している。苦行のあとの、ちょっとしたご褒美だった。

2010年5月8日土曜日

ふつうのボールペン


先月から使い始めた日付スタンプだが、機嫌良く毎日のように使っている。不思議なことに、下手くそな字には変わりないが、スタンプを押す作業が含まれることで、ノートを録ることが楽しくなった。どういう理屈か分からないけど、手書きする心理的負担が軽くなったのは確か。なんと字数まで増えている。

日付スタンプを買い求めた際、その店で一緒にボールペンも買った。最近書き味の良いボールペンが発売されたのだが、軸のデザインが悪趣味だったので、換え芯だけを先に手に入れていた。現在使っている手帳やノートと不自然にならない、無難なデザインのボールペンを見つけて、その軸と入れ替えて使おうという腹づもりだったのだ。そして店頭で偶然見つけたのがこのドイツ製のボールペン。書き味は何とか及第点の部類だが、落ち着いて、安定したデザインが気に入った。握った感じも、ほんの少し重みがあり、長めの軸と相まって自然な印象。何より、ごく普通で、目障りにならない点が好ましい。

いま愛用している「ジェットストリーム」の時もそうだったが、やっぱりその軽佻浮薄なデザインが忌々しくて、直ぐに軸を取り替えてしまった。果たしてこのデザインが好きな人がいるのだろうか訝っていたら、かなりの人たちが違うボールペンに入れ替えて使用している様子だった。ボールペンというのは、れっきとした実用品なのだから、余計なデザインを施さないでもらいたいのだ。誰もが毎日使うものだから、たとえ退屈だろうと、まずは平凡で自然なデザインに徹するべきだろう。

さて、その換え芯の入れ替えだが、軸に比べて短めだったので、空いた芯を切ってつないでちょうど具合良く収まった。どこにでもある普通の規格のボールペンだったので、簡単な作業で済んだ。書き味はというと、それはもう最新のメイドインジャパンだから、ほとんど文句の付けようがない。そこで余計なお節介だが、パソコンのCPU作っている会社みたいに、文房具会社はボールペンの中身だけを一所懸命開発し、外側は他の会社に任せた方がいいのではないだろうか。そうなれば少なくとも、わたしは大歓迎である。