『つまり、我々は貧しくなるのだ。よき貧しさを構築するのがこれからの課題になる。これまで我々はあまりに多くを作り、飽きて捨ててきた。これからは別のモデルを探さなくてはいけない。』これは一年前の新聞に載った、池澤夏樹のことば。これから起きるであろう変化の核心を突いている。
徐々に、そして暗黙のうちに、この事実に気づく人たちが増えてくるはずだ。おそらく、原子力発電を止めるという政策決定は、大多数の国民の支持を受ける。たとえ安全技術の進歩が期待できるとしても、原発は日本の地理的条件に合わないことを思い知ったからだ。他方で、石油依存の経済にも限界が見えてきた。わたしたちの未来は、せいぜい水力、風力、地熱などのわずかな自然エネルギーに希望を見いださざるを得ないだろう。そして、わたしたちの国は、必然的に脱工業国の方向に向かわざるを得ないこと、すなわち加工貿易によって1億の国民が豊かな生活をするという、これまでの日本の生存戦略を放棄するということを意味する。これからは、現に持てるリソースを上手に活用し、社会的な混乱を最小限にしながら、自給自足的な社会の実現を目指さなくてはならないだろう。漠然とだが、これからの変化をそんなふうに感じている。
自給自足的な社会とは、国家の役割が限定されたシンプルな社会だ。巨大な官僚機構が不要となり、18世紀的な夜警国家に戻る可能性もある。もちろん福祉政策という、十分な税収を前提としたサービスはありえない。最小限の健康保険制度が残れば御の字で、年金制度などは遠からず自然消滅するに違いない。そうなれば誰も一人では生きていけないので、子どもから老人まで血縁や地縁を大切にしながら暮らすことだろう。都市生活が営めなくなり、村社会が出現するやもしれない。もちろん、この変化は急には起きないだろうが、徐々にその傾向は見えてくるだろう。
「よき貧しさ」という言葉、思い描くイメージは様々だろうが、わたし自身は半世紀ほど前の、贅沢を言わなければなんとか暮らしていける、ほどほどにみなが貧乏という時代を想像する。現在のベトナムとかタイの生活水準だろうか。現金収入は限られているが、幸いにも温暖なアジアだから、それでも十分に生きていける。もしかすると今より暮らしやすい社会になるかも知れない、と希望的観測を抱いているが、それはちょっと楽観的すぎるだろうか。
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1年前に書いて、保存したまま放置していたエントリーです。内容的に顰蹙を買いそうだったので、どうしようかと迷ったまま時間が過ぎてしまいました。改めて読み返し、現在でも考えは変わらないので公開しました。
原発がすべて停止して、ほっと安心している人たちも多いことでしょう。しかし、その先に待ち受ける変化に想像を巡らせ、これに積極的に対応する姿勢に乏しいようにも思えます。詰まらない社説を書いて無邪気に喜んでいる新聞社もありましたが、社会の木鐸にしてはあまりに無頓着な印象を受けました。
ずっと以前に
読んだ本を思いだしました。エネルギー危機が訪れ、すっかり社会が変化した21世紀中盤の日本を描いた小説です。当時は荒唐無稽なSFとして読みましたが、すでに近未来小説となってます。先日、経団連のシンクタンクの長期予測が議論を呼びましたが、ちょっと大甘な予測という印象です。さて事実は空想を超えるでしょうか?