2012年8月30日木曜日

遙か遠くの国々

 私は、イギリスの映画や小説が大好きなんです。特に作品の中に見る、彼らの現実的で冷静な観察眼にいくども瞠目させられ、そして不屈の精神力に深い感銘を覚えました。ただし、それは自分を主人公に投影し、彼らの一員として世界を見る限りにおいてのみです。自分にとっての現実のイギリスは、感情的には、むしろ最もお近づきになりたくない国のひとつです。

そのきっかけを作ったのは、中学で夏休みの読書感想文のテーマに会田雄次の「アーロン収容所」を選んだからです。いまでは古典的名著と呼んでいいでしょう。この本を読んで、イギリス人は人種差別をするのではなく、人間と動物を分けるようにして、私たちを区別する人たちなんだと、明確に理解しました。何しろ心の柔らかい年頃ですから、子どもらしいメルヘンチックなイギリス観はたちどころに崩れ去ったものです。

 イギリス人の区別感覚が、もちろん彼らだけに限りませんが、なぜ生まれたかという点について、面白い仮説を立てている本を読みました。鯖田豊之の「肉食の思想」です。簡単に言うと、ヨーロッパでは、気候風土の特質上、大量に家畜を飼って、その肉を食べることで食糧問題を解決したが、キリスト教を受容する過程で人間と食料である動物を峻別する考え方が生まれた、というものです。この自分たちとその他を峻別する感覚が当たり前になり、そこから徹底した階級意識が育まれたと論じます。もちろん現在は民主主義や人権意識の進展と共に、露骨な差別は御法度となりましたが、肉食文化を維持している以上、構造的に決して無くなりはしないことでしょう。

このあたりの実情は、正直なところ、よく分かりません。しかし私たちは、ヨーロッパの支配階級の人々が、たとえ民族が異なろうと簡単に婚姻関係を結ぶ一方で、同じ民族でも被支配階級に対しては残酷なまでの搾取を続けた歴史を知ってます。それ以外にも、たとえば植民地の住人や有色人種に対して、過去にいかなる扱いをしたかも。更に、この区別の感覚を共有する社会が、どれほどの緊張感を孕んでいるかということも想像できます。以前、とある小国の首都に数日間滞在したことがありました。最初のうちは白人ばかりが暮らす豊かな土地だと思ってたのですが、たまたま高級住宅地に近い地下鉄に乗り込んだところ、車内で目に付くのは貧しげな有色人種ばかりで驚愕した経験があります。多民族が共存する社会といいながら、その実態は階級によって使う交通機関さえ異なるという、明らかに区別された社会を実際に目撃してショックを受けたのです。

本書は、細かいことをいえば、ちょっと眉唾な感じのする記述が散見されます。しかし大筋では、欧米的な価値観に微妙な違和感を持つ日本人だからこそ、ストンと腑に落ちる議論が展開されてます。また肉食を維持するため、また小麦からパンを作るため、どのように社会が成立したか、いかなる社会意識が形成されたか、という話は、かなりスリリングです。そうして、欧米社会の成り立ちとの対比で、わが日本社会の特質を考えるに絶好の素材を提供してくれる本だと言えます。

それにしても、母牛のおっぱいを追いかけ回すかわいらしい仔牛さえ、何ら共感することなく、単なる食料としてしか見えないというのは、ちょっと乗り越えられない感覚です。きっと間違っても牛や豚に愛称など付けないんでしょうね。


2012年8月27日月曜日

いただき物


家でコーヒー豆を挽いてたころ、ときおりコーヒー豆をプレゼントされることがありました。「はい、おみやげ!」と、ずしっと手応えのある紙袋を渡されて、思わずその場で袋を開いて覗き込み、中からふわっと香ばしい匂いが立ち上るときの感動。どんな品物より、嬉しかった。そして同じコーヒーでも、なぜか粉をもらうより豆のほうがずっと嬉しい。残念なことに、その後コーヒーグラインダーを手放してからは、そういう楽しみはなくなりました。

「八百万の死にざま」というミステリー小説で、ポン引きが主人公の探偵に美味しいコーヒーを淹れ、探偵がその味を褒めると、コーヒー豆を持って行くよう勧める描写がありました。自分が飲むために吟味したコーヒー豆を褒められて、これに対する彼なりの友情の表明だったのでしょうか。このあと探偵はどうしたかというと、ホテル住まいだからだという理由で、申し出を断ってしまいます。両者の深い孤独を思わせる、とても印象的な場面でした。

先日、思ってもみない頂き物があり、しばらく忘れていた感動を味わいました。手渡された茶色の素朴な紙袋の中には、なんと生麹がどっさりと入ってました。さっそく袋に鼻を突っ込むと、麹独特の心地よい香りが広がります。いま流行りの言い方だと、深い癒しの香り。無限の恵みをもたらす麹を手にして、さて何を作ろうかと思案する楽しさは、また格別でした。

せっかく何かの縁で、われわれは日本に生を受け、麹の恩恵をいっぱいに受けて成長しました。だから、コーヒー豆のように、ちょっとした付き合いで麹が普通にやり取りされるようになると楽しい。それが日本の伝統的な食生活を考えるきっかけになれば、更に素晴らしいことだし。それでも、たまたま味噌汁を褒めたら、うちの麹を持って行けと差し出されると、普通は面食らいますよね。これが味噌くらいなら、十分にありそうですが。

2012年8月23日木曜日

夏の工作 その2


子どもの頃から工作は嫌いじゃないんですが、仕事は早い代わりにもの凄く雑。ノコギリ持たせたりすると不思議と曲がっちゃうし、釘を打つとたいてい歪む、折れる。本人的には神経使っているつもりが、なぜか結果が出ない(笑。家族の話では、母方の祖父が何でもしたけど雑だったというので、要するに隔世遺伝なんですね。

そこで夏の工作第2弾は、針金細工です。ノコを使わないので、取り敢えず自信あり。写真では分かりにくいですが、ヘッドフォン用のハンガーを作りました。台座を構成する三角形の一辺が10㎝、高さは25㎝。材料は、太めの素材で作られてた針金ハンガーが一個。針金を細工する際に、ペンチやハンマーの傷が付いたので、仕上げには塗料を厚めに塗りました。塗料の乾燥時間を除き、約1時間で出来上がりです。見た目が華奢ですが、うちのヘッドフォンは初期の軽快なゼンハイザーなので、これでもぜんぜん平気なんです。

ふと思いついて、「針金ハンガー」で画像検索したのですが、あまりのことに大騒ぎしました。いえ、自分も人のことを言えたものじゃありませんが、とても不器用な方々もいらっしゃるようで、それでも精一杯の工夫をされているところに強い連帯感を覚えます。そろそろ子どもたちの夏休みも終わりですが、今も夏休みの宿題で工作をするのでしょうか。中学の頃は毎年、木工作品が宿題で出たものですが、あれを人前に出すのが本当に嫌で堪りませんでした。どう見ても、お父さんがやったんじゃないの、という作品を持ってくる生徒もおりまして、あれなどは息子の宿題を手伝ううちに本気になっちゃたのでしょうね。

2012年8月22日水曜日

葉っぱのトースト


お盆を過ぎても厳しい暑さが続きます。バルコニーの植物たちにとっては、少しでも油断すると、すぐに葉っぱが萎れてしまう暑さです。地植えだと多少は楽でしょうが、鉢植えは朝晩の水やりが、とにかく忙しい。毎回バケツで6杯程度の水を運んで散布します。おかげで夏場は、一日も家を空けることができません。毎日決まってスコールでもあるといいのですがね。

その甲斐あってか、プランターの野菜は毎日すくすくと育ちます。食べるより育つ方が早いので、けっこう急かされます。なので毎朝眠い目をこすりながら、晩ご飯に食べるレタスやルッコラなどを摘み取っておきます。夜にそれをすると、蚊の襲来を受けるので作業にならないのです。

あとはバジル。これも毎日採らないと、すぐに葉が堅くなります。しかしたくさん採れるので調理なんて面倒なこと、やっている暇がない。摘んだら、まんま食べる、これが一番。もっとも、皿にバジルを並べて、端っこから食べるというのもあれなので、トーストに並べてオリーブオイルと塩でいただきます。いかにも夏場のトーストという雰囲気です。

それでも追っつかない時は、枝ごとまとめてチャーハンに。ニンニク、トウガラシなども入れて、ワイルドに炒めるのがコツ。夏バテしたカラダによく効きますよ。

2012年8月21日火曜日

節電で乗り切る夏


一般家庭の電気使用量が、大幅に減少しているようです。東京電力ではこの夏、前年同時期比で約15%の減少。原発再稼働で揺れた関西電力でも、似たようなものらしい。事故直後の去年だって頑張って節電してたので、正直言って、こんなにすごい数字が出てくるなんて想像もしてませんでした。どんなに良くても10%は超えないと予想していたのですが、日本人の対応能力を甘く見すぎてました。節電には関心がない人たちを含めて、これだけの節電をしたというのは、私たちは悲しいほど真面目に頑張る人たちなんだなあと、心底思い知らされました。

それから契約アンペアの変更依頼が殺到しているとの報道もありました。来月から電気料金が値上げになりますが、いつもながら家計の動きの素早いことには感心します。契約アンペアの小さくすると、更に節電効果が生じることになり、この調子だと早期の脱電発も意外に可能かもしれませんね。

うちでは今月の電気使用量169kWh、前年同月比3%の減少です。1年前に冷蔵庫を買い換えて、今月から前年比での節電効果が小さくなってきました。参考までに今月を含めた過去一年間の総電気使用量は2230kWh、その前の一年間は3202kWhで、年間で約30%の節電です。冷蔵庫の買い替えと、冬場の暖房をガス一本にしたことが大きかったです。

そして今月の請求額は\4046。燃料費が高騰しているため逆に去年より請求額が上がっています。ちなみに今よりも浪費していた7年前だと、電気料金はむしろ現在より遙かに安かったのです。デフレ、デフレと騒がれてますが、肝心のエネルギーや食料は確実に上昇してることに注意しなくてはなりません。

2012年8月20日月曜日

深夜のオムレツ


村上春樹のエッセイを読んでいたら、オムレツについて書かれてました。このところ毎朝ずっとオムレツを作り続けている、と。そうなんです、「チャーハン雑感」のところでも述べましたが、料理はある期間継続的に作らないと上達しないんです。それからフライパンは直径が18センチのものをオムレツ専用にすること、とも。かつて自分も同じように教わり、18センチの鉄製フライパンを入手して練習したものです。しかしその後、こちらはオムレツにはとんとご無沙汰。フライパンは餃子を焼いたり、ときおりソーセージを炒めるくらいにしか使ってませんでした。

それで昨晩、久しぶりに鉄のフライパンでプレーンオムレツに挑戦する気になりました。一人前なので卵は2個、ボールの中でしっかりと溶きます。あと、詳しいコツは忘れました。塩加減も、火加減も適当に・・・です。ただ、強火でない方が熱をコントロールしやすく、作りやすい気がする。

ところが、いざオムレツを焼いてみると、フライパンの縁に卵がこびり付き、以前のように上手に返せない。仕方がないので、菜箸で端っこを折り返しつつ、トントントンと柄をたたきながら形を整えました。火を切ったらオムレツが余熱で蒸れないうちに、とっとと皿に載せてやります。もし火の通りが甘い場合は、逆に余熱で調整することもありますが。

いやはや、見た目は今ひとつですが、中身は一応トロトロの仕上がりです。もし写真で食欲をなくされたら、お詫びします。村上さんに倣って、しばらくのあいだ精進してみましょう。それでちょっと思い出したのですが、オムレツの代わりに布巾を小さく畳んで、フライパンの上で返す練習なんかも繰り返しやってました。当時は暇だったのですかねぇ(笑。

2012年8月19日日曜日

遠い花火


夕涼みがてら近所を散歩していたら、遠くから雷鳴が響いてきました。傘を持ってこなかったので、さてどうしようかと立ち止まったら、周りの人たちが背伸びして遠くを見ているのに気がついた。同じ方角に目をやると、民家の屋根から色とりどりの花火の輪が顔を出している。しばらくすると、再び小さく乾いた雷鳴が聞こえる。どうやら多摩川で花火大会が行われているらしい。

ショッピングセンターから見えるかと期待して行ってみると、すでに屋上は見物客で満員です。人垣の後から背伸びすると、川沿いの2カ所から競うように花火が打ち上がるのが見えます。人混みが嫌いなので、これまで花火大会には行こうとすら思わなかったのですが、押し合いへし合いしながら花火の美しさに歓声を上げるのも意外にも楽しい体験でした。

散歩のあと、夕食を食べて帰るつもりでしたが、なんとなく今夜の出来事を誰かに話したくなり、そのまま行きつけの飲み屋に行きました。しばらくして店を出ると、遅い時間にもかかわらず、浴衣姿の大勢の若者たちが駅に向かって歩いている。まったく風がないせいか、道の所々にフレグランスの匂いが塊のように残っていて、そこを通り抜ける瞬間、フッと生々しい体臭を感じました。

「恋は、遠い日の花火ではない」という有名なコピーを思い出す夜でした。

2012年8月18日土曜日

夏の工作


頂き物の空き箱があったのですが、薄く平たい形をしていてリサイクルが難しい。しかし、こんなところにもコストが掛かっているのだと思うと、もったいなくて捨てるに捨てられない。さりとて適当な使い途も思いつかないというわけで、その処分に困っていた。

そういえばうちには手頃なトレイが無かった。メラミンのは何枚かあるにはあるが、それらは主に調理用。机の隅っこなどに、お茶とおやつを置いた時に、ちょっと危なっかしく感じてた。おっ、それじゃあひとつ工作してみるか。

箱は釘を打ち付けただけの粗末な作りだったので、一旦ばらして、接着剤を使って丈夫に組み立て直しただけ。ただ、それだけでは芸がないので、トレイの底板を塗装しました。白木のままでは、簡単にシミや傷が付いて、すぐに汚くなりますから。この工作でもっとも時間が掛かったのは、ラッカーの配色でした。グレーにするか、少しブルーを足すか、色を確認しながら混ぜ合わします。これがなかなか、気に入った色にならないのです。

出来上がったのは、ごらんの通り素朴な北欧風味のトレイ。非常に軽くて、場所もとらず、意外に良いものができたと自画自賛。なにしろ鋸を引かなかったのが勝因です(笑。

2012年8月16日木曜日

台所でくつろぐ



暑い季節に、我が家で一番居心地のいいのが台所です。風通しが良く、手を伸ばせば届くくらいに樹木が覆い被さり、今日のような猛暑でも周囲より数度は気温が低く感じられます。そんなわけで、台所のスツールに座り、真っ昼間から飲んでます。

ことし漬けたばかりの若い梅干しをひとつ、氷と炭酸水、それに冷房をかけないご褒美に焼酎を少々。ソーダスプーンでかき混ぜながら、真夏の暑さを楽しみます。もちろん普段はこんな奔放なことしません。残り少ない盆休みですから、鬼の居ぬ間に、ほんのちょっぴり羽を伸ばせてもらっているだけです。

吹き抜ける風に、遠くの蝉の声。焼酎をつぎ足し、カラカラと氷を回しては、何もしない幸せを噛みしめます。けっきょく今年も、どこにも出掛けない引きこもりの連休となりました。

2012年8月14日火曜日

チャーハン雑感



伊丹十三の映画では、断然「タンポポ」が気に入ってます。映画の本筋よりも、むしろ短い挿話がいい。特に「母ちゃん」の最後のチャーハンなんて、心に染み渡るエピソードです。貧乏所帯だけど、「母ちゃん」は料理がとても上手で、手入れのされた広東鍋を使って、炎を立てながらチャーハンを炒めるわけです。このあたりの細かい表現は、伊丹監督の厳しい演技指導が入っているのでしょう。直後に「母ちゃん」が死んで、子供を励ましながら親子で最後のチャーハンを食べるシーンで、私はいつ観てもグッときます。



お次はガス会社の「お父さんのチャーハン」、きっと先の「母ちゃんのチャーハン」が脳裏にあったはずです。こちらは玉子かけご飯を炒めただけのような、ソースが隠し味になっていないチャーハン。鍋は北京鍋。娘の結婚の支度でバタバタしてたのでしょう、晩ご飯に店屋物を注文しようと電話の前に立つ父親に、娘が父親の唯一の得意料理であるチャーハンをねだります。不器用な父親をきたろうさんが、抑え気味に上手く演じてます。ただ甘やかされた娘が、すぐに戻ってくるような気になって仕方がないのは、自分だけでしょうか。

チャーハンは、自分で言うのも何ですが、わりと得意料理。ある時期、料理本を傍らに集中的に作り続けたことがあったからです。たまに思いついたように作るから、いつまでたっても要領が飲み込めないだけで、連続して作ると誰だっていやでも上手になるものです。何度か妹たちに作ったこともあって、お兄ちゃんのは美味しいんだよねと、今でも時折話題にされます。チャーハンの良さは、特別な食材が無くても、兎に角なんとかなるという融通無碍さじゃないでしょうか。手持ちの材料に合わせて、ケチャップを使ってオムライス風、ナンプラーでナシゴレン風、玉子だけなら、先の「お父さんのチャーハン」風ピラフ。そういえば「お父さんのチャーハン」はパラパラでなくパサパサと評されてましたが、あれはむしろしっとりと仕上げた方が美味しいでしょうね。

どうしてチャーハンのことばかり書き連ねているかというと、買い物を無精しているうちに冷蔵庫がネギと冷や飯だけ残してすっからかんになってしまったからです。どうせひとりだから、酒とつまみで寝てしまうという離れ業もありますが、お盆でもありますし、真面目にチャーハンを作って父の写真にお線香と一緒にお供えがてら並べようかと思います。

「スクリューフレーション・ショック」


去年も同じテーマを取り上げましたが、スクリューフレーションについてコンパクトに解説しているが出ていたので読んでみました。かいつまんで言うと、資本が世界中を自由に移動するようになって、先進国の賃金は上昇しなくなった。一方で発展途上国に爆発的な需要が生じ、食料や資源価格の価格の上昇が止まらない。その結果、従来中間層と呼ばれた人たちが減少して、国全体が貧しくなる。とりわけ、資源と食糧の自給率が、世界的にも非常に低い日本に、スクリューフレーションの影響が顕著になっていくだろうと・・・。今回の増税について、私は近年最低の政策ミスだと罵りましたが、その一番の理由に、この中間層の貧困化の問題がありました。決して大袈裟ではなく、私たちや国の運命を左右する重大な政治案件だったのに、経済のケの字も知らなさそうな大臣を据えて、国民の関心が他所にいっている間にしれっと法案を通してしまうのだから、私たちは本当に有能なリーダーを持ったものです。

このスクリューフレーションを防止する手段ですが、さしあたり決定打がないといいます。中国、インドなど途上国の賃金水準が、先進国に近づくまでは止まらないということです。果たして、いつ、どの辺りでそれが均衡するのか、興味津々です。ただ、経済的ショックを和らげる手段として、資源と食糧の自給率のアップが提言されてました。これだけならば意外に簡単かもしれません。要するに、国民ができるかぎり無駄のない、質素な生活をすればいいわけです。たとえば廃棄食料をなくすだけでも、とても効果がありそう。需要という分母が小さくなれば、自然と自給率は上がるはずですからね。

そう考えると、私たちの多くは無意識に賢い選択をしているのかもしれない。何しろここ数年、暮らしぶりの質素な人たちが増えてますから。よくクルマ離れが言われてますが、少々遠くても歩いたり、自転車に乗る人が目立ちます。古いモノを修理して使い続けることに、何ら抵抗のない人が増えてます。靴の修理専門店や服のリフォーム専門店もよく見かけるようになったし、輸入家具や食器のリサイクル店なんか、以前は想像もできませんでした。専門家の指摘を待つまでもなく、敏感に経済の変化を先取りして世間は動いているのです。むしろリーダー層の人たちの、とんでもない鈍感さや不勉強こそが、私たちの足を引っ張っているのじゃないでしょうか。

2012年8月11日土曜日

消費税の引き上げ


拙いことをしてくれた、よりにもよってこのタイミングで政府は最悪の選択をした、というのが率直な感想。ただでさえ国民の負担、とりわけ勤労者世帯の負担感が大きくなっているのに、ここで消費税を引き上げると一気に消費意欲が減退します(断定。そうすると景気が悪化し、更に税収が落ち、財政規律の名の下に再度の増税というのが既定路線。いったい見込みのない増税が繰り返されて、明るく元気になる国民が、この世の中のどこにいるというのでしょう。復興増税で家計の維持が厳しくなるのに、ここで景気よりも財政の健全化を優先するという感覚が、もはや病的に浮世離れしています。それよりは、さっさと財政を破綻させ、これ以上失うものはないという清々しい気持ちで頑張る方がよほどマシでしょう。

本日のテーマに関連して、いつもの内田さんのブログで興味を引いたのは、「国民たちの市場からの撤収」という見立てでした。平たく言うと、このまま国民生活が圧迫され続けると、人々は生活物資を自分で直接作ったり、ご近所さんたちと融通し合いましょ、という流れになるといいます。ご本人の思い入れもあるでしょうが、そういうコミュニティが形成されていくにしても、日本ではきわめて限られた範囲でのことでしょう。いい悪いは別にしても、結局は私たちの価値観と覚悟の問題になります。

当ブログでもたびたび話題にしていますが、過剰に商業的な振る舞いをするのではなく、豊かさを追求する限度で市場に参加するのが落としどころじゃないでしょうか。自己を単なる消費の客体に貶めるのではなく、あらゆる手段で積極的に暮らしの付加価値を創出し、主体的に人生を楽しみたいと考えています。以前、生活保護を受けている人の暮らしをテレビで見ましたが、そこにはなんの創意工夫もなく、娯楽を含めた生活全般が商業施設頼みという具合。そのあり方を、単にお金をもらって楽してると見るか、日本人の暮らしのミニチュアサイズと見るか、まあいろいろと考えさせられた番組でした。

2012年8月9日木曜日

クルマの話など

うちのクルマとは、かれこれ15年近くの付き合いです。いちおう輸入車なんですが、なにしろ地味なクルマですから、たいていそれとは気づかれません。購入した動機は、小さいわりに荷物がたくさん載せられ、シートの座り心地が良く、外見の素っ気なさが性にあったという点に尽きました。外車だから決めたというわけではないのです。日本では一般に知られていないメーカーで、たまに綴りの読みを訊かれたりします。私自身も知っていたことといえば、往年の人気刑事ドラマで主人公が長年乗っているボロ車と同じ会社で、なぜか胡椒挽きも作っている会社だというくらいでした。今もその程度のことしか知りません。

どういうクルマかというと、鍋釜のような飾らないクルマというのがぴったりです。実用の調理器具のように、誰かに見せびらかすものでなく、使う本人が納得していればそれで良いという考え。何よりも肝心なことは、自分にとって相性が合うことが大切でした。本人や同乗者の命を預ける道具ですから、クルマと「気持ちが繋がる」必要があります。気持ちが繋がるようになるには時間が必要であり、そのためには自然と愛着を持てるような道具でなくてはならないということです。

そういう意味で、自分と相性の良いクルマに出会えたのはラッキーでした。実は、先代の初めて買ったクルマもそうだったのですが、先入観抜きの印象と勘だけで決めたのが良かったのです。ブランドとか、世間の流行なんかではなく、単純に仲良くなれるかどうで素直に判断するのがクルマ選びのコツだろうと思います。もちろん値段も無視できない要素ですが、気分良く乗ることが出来れば、長期的にはそれが一番お得なんですよね。

購入当初、家の近所でも見かけた同じモデルの車たちは、今ではすっかり見なくなってしまいました。一台のクルマを大切に乗り続けるという習慣がないからでしょうか、我が国では新車を6年程度で乗り換える人が多いと聞きます。気がつけば周囲のクルマは、より大型化、高級化しています。肝心のドライバーは高齢化する一方なのに、そんなクルマで不便を感じていないのでしょうか。そろそろ我が家でも次を考える時期なのですが、このままペナルティー付きの割高な税金を払いながら乗り続けるか、もっと小さくて魅力的なクルマに乗り換えるか、はたまたカーシェアリングに切り替えるか、まだまだ悩み続けなくてはなりません。最後の写真は、うちのコの生まれ故郷で撮りました。派手好きの首都と違い、地方では同じクルマが現役でいくらでも走っています。日本ではいなくなってしまったので、発見すると妙にうれしいものです。

2012年8月7日火曜日

ステファン・グラッペリの曲




新しいスピーカーを音馴らしついでに、PCの音声ファイルやCDの整理をしています。タイトルで一番多いのはジャズとクラシックですね。ロックはあまりないです。民族音楽や現代音楽やらの分類が難しいタイトルも多いのですが、どれも分け隔てなく適当に聴いています。特に誰かのファンという感じでもなく、あくまでも自然体で楽しむのが流儀です。

アート全体についても思うことですが、音楽は人生を豊かにするツールに過ぎないのじゃないでしょうか。それぞれの人が持つ理想や世界観を深めたり、支えたりする道具。ですから、特定のアーティストを信奉したり、その作品を絶対視するというのは本末転倒だと感じるわけです。そもそも道具というのは、目的にかなった使い方をすることで、はじめて価値を持つわけですから。

冬に帰省したときに、母がマイルス・デイビスを聴きながら家事をしているのに驚きました。どういう経路で知ったのかは知りませんが、毎日のように台所で「カインド・オブ・ブルー」なんかを聴いているそうです。音楽なんてラジオで片手間にしか聴かない人ですから、ジャズのこともまるで知りません。そういう母が、マイルス・デイビスで夕餉の支度をするなんて、なかなかやるもんです。

今度帰省する折には、母のためにちょっと毛色の違う音楽を手土産にしようかと考えてます。自然と鼻歌が出るような楽しい曲で、優雅で洒落ていて、しかも上質な演奏のもの。ジャズ・バイオリンの巨匠、ステファン・グラッペリなんかどうでしょうね。どちらかというと古風な演奏スタイルですが、若い頃から大好きなアーチストなんです。蒸し暑い晩にぴったりの、涼しい夜風が吹くような曲を聴きました。

2012年8月6日月曜日

「脱資本主義宣言」


「資本主義なんて欺瞞だ」という声が強くなっているのでしょうか。つい最近も、消費社会を問い直す海外ドキュメンタリーをテレビで観たばかりです。反原発運動の背後には、資本主義の過酷さを感じている人が多いのかも知れません。

脱資本主義宣言」という本を読みました。書いてあることはわりあいと平凡で、今更感があります。永久に消費を刺激し続けなければ回らない資本主義は、いつかは壁に突き当たる、と。普通のおとなは、程度の差こそあれ同じような不安や危惧を感じてますよね。そういう意味で、感覚的には至極当たり前のことを言っていると思いました。

今では不人気の共産主義だって、嘗てはみんなで御輿を担いでたから回っていたわけで、誰かがもう止めたいと言い出して、あっけなく転んでしましました。きっと一部の人しか得をしない体制だったのです。これまで資本主義が生き延びているのは、逆に得をする人が相対的に多いからなんでしょう。しかし、もし得していると思う人が少なくなったら、もういいやと御輿を担ぐ人が離れだしたら、意外にあっけないかも知れません。そうなったときに問題になるのは、じゃあ次はどうするのかということです。

もちろん、これだけ複雑に入り組んだ政治経済体制ですから、人為的な解決はきわめて難しい。それに、もう嫌だで投げ出すのはあまりにも恐ろしい。社会に影響力のある人たちと違い、大部分はそもそも自分がどのように資本主義に関わっているのかさえ分からないのが現実です。

おそらく、個人の取り得るもっとも穏当な方法は、ほんの少し距離を置いて眺めることだと思う。大げさに貨幣や商品を拒絶したり、自給自足のコミュニティを目指さなくても、「はて」と立ち止まることが必要だ。大切なのは社会ではなく、いまを生きる個人個人なのだから、それぞれの立場でいまの生き方は幸せなのかを考えればいい。みんなが一色に染まって行動すると、社会が柔軟性を失い、全員で沈没することだってあるでしょう。肝要なのは、個人が多種多様な生き方を目指すことで、社会の変化に対応できる集団を育てておくことです。もっとアクセル踏んで資本主義で突ききろうという集団もあり、隠遁者のような集団もあり、その他いろいろ右往左往の集団あり、その中から次の大きな変化に対応する人たちが残ればいいという感じでみてます。

フランス革命や明治維新の混乱は書物や映画から想像するのみです。ソ連邦が崩壊した時は、その様子をテレビで見ることができました。年金頼みの暮らしをする老人たちが、自分たちの僅かな家財道具を道ばたで売ってました。男たちはアルコールに溺れてました。そんな混乱の中でも、変化を見つめて必死に対応しようとした人たちも多かったのです。

今や世界中の観光地を席捲している豊かなロシア人たちに、あの時代を一体どうやって生き延びたのか、詳しく訊いてみたいものです。路傍で安物の茶碗やイコンを並べていた老女は、その後大丈夫だったのでしょうか。それから今の資本主義の居心地なども。

2012年8月5日日曜日

スピーカー、買いました。


手持ちのCDはすべてMP3ファイルに変換していて、CDプレーヤーで聴くことがなくなりました。それでMP3を聴く場合は、ほとんどヘッドフォンなんです。いくら大音量で聴いても気兼ねがないのはいいのですけど、いつもそれだとちょっと辛い。特に夏の暑い時期は、耳の中が蒸れますし。それで六畳間の手を伸ばせば届く距離で、ちょこっと鳴らす目的で探してきたスピーカーです。

そりゃ大袈裟な装置の方が絶対に音はいいのでしょうが、それを追求し始めると大変な道楽になります。特に私の場合などは、音楽を楽しむより煩悩に苦しむことになりそうです。それよりは音は犠牲になっても、自分の好きな音楽をふんだんに、気軽に楽しめる方が豊かになれる気がします。それじゃ全然味気ないといわれると、確かにそうなんですけどね、まあ人それぞれ分相応ということです。

写真に見てのとおり、辞書を数冊束ねたくらいのコンパクトサイズなので、鳴らし方に工夫が要ります。私はスピーカーを書棚に押し込んで、自然に低音が出るようにしました。加えてパソコン側の出力特性を適当に補正します。あとは如何に音楽を楽しむかという自分のオツムをチューニングすれば終了です。下手に手間をかけると、自然と音の粗探しを始めるので、ほどほどで妥協するのがいいのではないでしょうか。

肝心の音の具合はどうかというと、テレビやラジオの音よりずっといいのは確かなんですが、それ以上を求めていたわけではないので十分に満足です。部屋の中でこぢんまりと、整った風景を描く感じといえば伝わるでしょうか。小編成のクラシックやジャズボーカルなんかよく聴きますが、そういう傾向の音楽にぴったりです。何より全然置き場所を取らないし、お財布に極めて優しいというのが嬉しいです。それから全体の質感が高く、安かろう悪かろうという惨めな商品ではなく、しっかりと真面目に作っているという印象を受けました。

ずっと以前に民族音楽学の小泉文夫の本を読んでいて、レコードの批評をするのに秋葉原で買った安物のポータブルプレーヤーで聴いているとの記述に出会ったことがありました。オーディオ装置に関心が強かった頃ですが、それで一気に興味が醒めてしまいました。何百万円もの機械に囲まれて真剣に音の粗探しをするより、原っぱでウォークマンを気分よく聴いている方が楽しいよね、と素直にそう思えるようになったのです。それはさておき、また小泉文夫の本を読み返したくなりました。松岡正剛さんによる著作の紹介が素晴らしいです。